(Ⅰ)カリブの先住民族 (Caribeños nativos)
A タイーノ族(Taínos)
皆様方は「カリブ」といえば、即座に「カリブ海」とか「カリブの海賊」を連想することでしょう。確かに我々日本人からみると、カリブという響きはアジア、アメリカ、ヨーロッパ、に比べてエキゾティックで、遠い世界の存在です。しかしそこは、コロンブスが現れる15世紀末までは約百万人と推定される、我々の祖先とそれほど遠くないルーツを持った人々が平和に暮らしていたところなのです。ですから、その人々が世界史に登場するのは歴史的に見てもつい最近、今からせいぜい500年ほど前、日本史の年表でいえば、室町時代から戦国時代に入ろうかという頃です。しかも、彼らはアッという間に消えてしまいました。コロンブスが率いるスペイン軍の侵入と搾取、殺戮、彼らが持ち込んだ感染症が原因です。皮肉なことに、コロンブスによって初めてヨーロッパに知らされたカリブでしたが、そこに住んでいた平和な人々は、コロンブスとその後続者たちによって絶滅させられました。
ただ、この歴史的事実を語る時、「スペインなどの文明先進国によって絶滅させられたカリブが行った唯一の報復は、征服者が持ち帰った感染症「梅毒」がアッというまに全世界に伝染し、それによって文明先進国の人々を恐怖に慄かせたたことだ」という話があることは、ご存じのとおりです。
では、絶滅した「カリブの先住民族」はどんな人々だったのでしょうか。残念ながら今となっては、はっきりしたことは分かりません。征服者たちが、我先にと富を追い求めることに没頭した結果、「先住民族」についての詳細な記録を遺さなかったからです。それでも、現在は形質人類学と文化人類学の両面から研究はかなり進んでいるようです。大雑把にいえば、カリブ世界には紀元前4000年から3000年頃、すでに人類が存在していたことが証明されています。さらに、コロンブスが現れる1492年には「タイーノ族(Taíno)」と呼ばれる種族がカリブ全域の大部分を支配していたということも解明されました。そのタイーノ族の人々が、たまたま運悪くコロンブスと遭遇してしまった、ということになります。タイーノ族は、南米べネゼーラを流れる「オリノコ河(Orinoco River)」流域に住んでいた「アラワク人(Arawak)」の血筋を引く民族であることが定説になっています。大陸に住んでいた彼らが、どうして広大な海域に進出できたかという疑問もほぼ解決済みです。すなわち紀元100年頃から、彼らは簡素なカヌーを操り、季節風と海流を利用してカリブ海に点在する大小様々な島の間を往来していたことが判明してきました。
タイーノ族以前にも紀元前の昔から多くの種族がカリブに存在していたことは、考古学的に証明されている、と述べました。しかしそれについては、この項の趣旨と離れますので詳述は避けます。ただ、スペイン人が「カリブ侵略」を開始したときには、タイーノ族がカリブ一帯を支配していた、という事実だけは押さえておいてください。
一口にタイーノ族といっても、広いカリブの世界にはいくつかの異なった文化を持ったタイーノ族が共存していたようです。その分布を地理的に大きく分けると、「西タイーノ族(キューバ、ジャマイカ)」、「中央タイーノ族(プエルト・リコ、ドミニカ、ハイチ)」、「東タイーノ族(カリブ海東にわん曲しながら連なる島々「小アンティル諸島(Lesser Antilles)」の北半分)」の3地域になります。その中でも、彼らが「ボリーンケン(Borinquen)」と呼んでいた現プエルト・リコの中央タイーノ族は別名「原タイーノ族(Classic Taínos)」ともいわれ、高度な文化文明を持っていたことは分かっています。タイーノ人は概して温厚でした。タイーノという言葉は、元々「善良な(good)」とか「気高い(noble)」という意味で、自分たちは野蛮な「アイランド・カリブ族」(次項Bアイランド・カリブ族)と違うことをコロンブスたちに強調したいがため、頻繁に使ったことから部族の名前として伝わった、といわれています。しかし不幸なことにこの性格が災いして、あっさりスぺイン人に征服される結果になったのでしょうか。
ついでに、コロンブスの4回にわたる航海の時期はだいたい春から初冬にかけてです。特に第1回と2回目は8,9月、かの悪名高きカリブのハリケーンシーズンにスペインを出帆、数ヵ月に亘り侵略を続けています。奇妙なことに、全4回の航海を通じて「コロンブスがハリケーンに遭遇した」という記録は見当たりません。ハリケーンはカリブ特有の天災です。『カリブのラテントリオ』(13頁、14頁)の記述にもあるとおり、ハリケーンがカリブ社会に与える影響は計り知れません。2017年も超大型ハリケンーンが数度襲来、カリブの島々に甚大な被害を与えました。コロンブスによって絶滅させられたタイーノ族には、日本の「元冦」の時のように「神風」は吹かなかったようです。因みに英語の「ハリケーン:huirricane」の語源はタイーノ語、という説もあります。
15世紀末タイーノの島「ボリーンケン(プエルト・リコ)」それぞれ別の首長が治めていた18の村落分布図
B アイランド・カリブ族(Island-caribeños)
タイーノ族以外にも、異なった文化をもった種族がいました。その中に、先ほどの東タイーノ族が住んでいた小アンティル諸島の北半分に隣接した地域、すなわち、わん曲した「小アンティル諸島の南半分」を支配していた「アイランド・カリブ族(Island Caribs)」と呼ばれる人々もその一つです。現在この海域は カリブ海と呼ばれています。コロンブスが侵略を開始した当時、西インド諸島に広く分布していたのはタイーノ族であって、カリブ族でないことは前述しました。つまり、現在の地図上でこの海域が「タイーノ海」と明記されていても不思議はないはずです。
本来「カリブ」という名称は、現在のべネゼーラ共和国の沿岸に住んでいた人々の一部が小アンティル諸島に進出したアイランドカリブ族の呼称にすぎなかったことは前述しました。そんな一部族の名称がなぜ広大な海域を表す呼称になったのでしょうか? それには諸説あります。中でも有力な説は、タイーノ人自らが自分たちの種族を表す言葉としてタイーノという名称を使っていなかったから、というものです。つまり、侵略者たちの間に種族を表す言葉としてタイーノの名称が浸透していなかったから、というのです。
また別の意見として、西インド諸島の入り口にあたる地域に住んでいたアイランド・カリブ族は、侵略者たちとの接触の機会も多く、好戦的で、真偽のほどが疑わしい 「人肉を食べる残忍な部族」という風評がたったことも侵略者たちに強烈な印象を与えたから、という研究者もいます。さらに、スぺイン人が自分たちの行った略奪、殺戮を正当化するため、「野蛮な風習を持つカリブ人」という印象をことさら強調したことからカリブという呼称が一般化した、という説もあります。
(Ⅱ)カリブ諸国 (Países caribeños)
A カリブ海周辺諸国(Países frente al Mar Caribe)
上記「カリブ地図」をご覧ください。そこには「カリブ海に浮かぶ島々(国々)」と、「カリブ海周辺の国々」が描かれています。前者は、すでに述べたようなコロンブスが侵入した当時のタイーノ族の島々で、後者は、その海域に面した周辺諸国です。これらカリブ海に浮かぶ島々とカリブ海周辺の国々とでは、歴史が全く違います。特に、スペイン、イギリス、フランスの支配が始まった16世紀以降は、両者はほとんど別世界です。いいかえれば、ポルトガルが支配した「ブラジル」は別にして、上記3国がそれぞれ統治した島々と、スペイン1国が統治したラテンアメリカ大陸とは歴史の歩みが違いました。ラテンアメリカ大陸は、1810年頃から始まったベネゼーラ人シモーン・ボリーバル(Simón Bolíval)による、いわゆる「ボリーバル革命」の波が起こり、各地でスペインからの独立戦争が勃発し、多くの国々が誕生しました。ただし「独立」といっても実際のところは、それまでスペイン本国からの利権をバックに各地で縄ばりを張っていた大地主たちが、スペイン本国の直接支配、つまり多額の税金から逃れるために反旗を翻した、というのが真相です。つまり一般民衆とは無関係な争いだったのです。その結果今日にいたるまで、ラテンアメリカの多くの国々は「独立民主国家」とは名ばかりで、実際には200年以上前から続く支配階級によって、政治、社会、経済が動かされているのが実情です。
B カリブ海の島国(Países isleños)
一方「カリブ海に浮かぶ島々」では、米西戦争に負けるまで、スペインはキューバ、プエルト・リコ、ドミニカ(小アンティル諸島にある「英領ドミニカ」とは別です)などの支配権を離しませんでした。従ってカリブの歴史は、1898年にアメリカ合衆国がスペインに勝利したときから始まった、ということができます。そして、このときに合衆国政府がとった政策が、上記3国のその後の歴史を変えることになるのです。すなわち、キューバは1890年代から始まったホセー・マルティー(José Martí)の独立運動もありましたが、アメリカ合衆国のおかげでなんとか独立を果たせました。ちなみに、スペインではなく、イギリスの植民地だった「ジャマイカ(Jamaica)」は早々と1804年に、フランスの植民地だった「ハイチ(Haití)」は1962年に独立しています。
ドミニカ共和国(República Dominicana)の歴史はやや複雑です。現在ドミニカ共和国のある「ヒスパニオーラ島(Hispaniola)」(コロンブスはこの島の山々を初めて見た時、スペインを思い出し、「スペイン島(La Isla Española)」と命名しましたが、その後ヒスパニオーラ島と呼ばれるようになりました)は、面積ではキューバに次いでカリブでは2番目に大きな島です。ついでに、キユーバ島、プエルト・リコ島、ジャマイカ島、それにこのヒスパニョーラ島を加えた4島は「大アンティル諸島、英名で大アンティーリース(Great Antilles)」と呼ばれ、フランス、イギリス、オランダの植民地となった小アンティル諸島と対比されています。この島は、もともとコロンブスが1回目の航海の早い時期に上陸し、その日がたまたま日曜日だったため、スペイン語の日曜日、つまり「ドミーンゴ(Domingo)」にちなみ、「サント・ドミーンゴ(Santo Domingo)」と名付けました。風景の美しさもあって、彼はここが気に入り、最初の侵略拠点にしましたが、先住民タイーノ族の反抗や疫病の蔓延にも悩まされ、拠点を何度か移しながら現在のドミニカ共和国の首都サント・ドミーンゴ市付近に落ち着きました。その後、此処には略奪するような物(特に金)がないことが分かり、スペイン本国はサント・ドミーンゴにあまり関心をもたなくなりました。その虚をつき、1660年頃からフランス人の大量入植が始まり、スペイン人地主の支配権が次第に脅かされるようになった結果、1697年、スペインはフランスに、この島の西部3分の1をフランス領と認めました。その後1821年には、フランスから独立した 共和国が全島を支配するようなりましたが、1844年、島のスペイン人地主たちが蜂起し、1697年当時の領土を回復しました。それ以降現在に至るまで、ヒスパニョーラ島の西部3分の1はハイチ共和国、東部3分の2はドミニカ共和国になっています。
ドミニカ共和国はその後1865年に、隣国ハイチの援助を受け、スペインの支配からほぼ脱出できました。しかし、1898年の米西戦争でアメリカ合衆国が勝利したことにより、今度は合衆国の介入を受けることになります。アメリカは、1916年に軍事介入、1930年には傀儡としてラファエール・トルヒーリョ(Rafael Torjillo)将軍を擁立、30年間の独裁を許しました。しかし、彼のあまりの独裁ぶりにアメリカも見切りをつけることになります。最終的にトルヒーリョ大統領は1961年に暗殺され、傀儡独裁政権の幕は降ろされました。私事ですが、1970年に仕事の関係でカリブ海とは反対側の太平洋に面した「エクアドル共和国(República Ecuador)」に駐在したことがあります。そのときに、あるエクアドル人から聞かされた言葉が耳に残っています。それは、❝ドミニカのトルヒーリョは日本の「ヒロヒート(裕仁=昭和天皇)」だった❞ 、というものです。
さて、プエルト・リコです。日本の岡山県ほどの面積を持つこの島の歴史は、1493年11月19日、コロンブスが2度目の航海で島の西海岸の入江、現在の「アグアディーリャ(Aguadilla)市」沖付近に到着し、翌20日にアンカリング、上陸したところから始まります。コロンブスはこの島の命名に際し、初めてヨーロッパの言葉を使い、その島を彼の生まれ故郷である「イタリー」の「ジェノア(Genoa)」の守護神「サン・ホワーン」にちなんで「サン・ホワーン・バウティースタ(San Juan Bautista)」と名付けました。その後スペイン人は島の北部に格好な入江を発見し、そこを「すばらしい港」すなわち「プエルト・リコ(Puerto Rico)」と命名し、島の探索拠点にしました。その結果、この「プエルト・リコ」という名前が島そのものを表すようになり、それにともなって、いつの頃からか、この港町は「サン・ホワーン」と呼ばれるようになったのです。
ところで、現在のカリブ海域の支配権が1898年の米西戦争の結果、スペインからアメリカ合衆国に移ったことは、前述しました。そのおかげで、キューバはなんとか独立を果たせたことも述べました。しかし、残念ながらプエルト・リコだけは独立できず、「共和国」入りはなりませんでした。その理由はただ一つ、アメリカがプエルト・リコを手放さなかったからです。ただし、自治権は認めました。とは言っても、「軍事」「外交」以外の「自治権」だけです。肝心の「司法権」は認められているはずなのですが、実際にはウヤムヤのままです。島の人々にはアメリカの永住権が与えられています。合衆国入国ビザも必要ありません。つまり、プエルト・リコはアメリカ合衆国国内、という解釈です。しかし、合衆国議会の選挙権も被選挙権もありません。それでも、オリンピックには独立国家のような顔をして、参加できます。ここで唐突ですが、アメリカのプロ野球「MLB」の話をします。ご存知のように、現在のMLB全30球団の主力選手のほとんどはカリブ出身です。最も多く輩出しているのがドミニカ共和国で、以下ベネゼーラ、プエルト・リコ、キューバ、パナマー、メキシコそれに、小アンティル諸島のオランダ領や「ヴァージン諸島」からも何人かプレーしています。それらの国々の選手がMLBのどこかの球団にスカウトされ、新人登録される場合は、あくまで個々の自由契約です。ところが、プエルト・リコの選手だけはアメリカ国籍の新人と同じようにドラフトにかけられ、契約金の上限も決められています。これにはプエルト・リコの選手も大ブーイングです。この事実一つをとっても、プエルト・リコは要するに、‘アメリカのようであってアメリカではない’「半独立国家」なのです。
「プエルト・リコ」の正式な国体名はスペイン語で、「Estado Libre Asociado De Puerto Rico(プエルト・リコ自治州)」英語では、「Commonwealth Of Puerto Rico(プエルトリコ米国自治連邦区)」と呼んでいます。分かり易くいえば、「合衆国連邦の一員」ということになります。
拙訳書『カリブのラテントリオ』の時代、1950年代にはまだ「プエルト・リコ独立派」の勢力が結構存在しました。1950年には「独立運動過激派グループ」がプエルト・リコ人の知事公舎を襲撃、警備員との銃撃戦になり、双方合わせて27名の死者がでる事件や、翌1951年には「国粋主義過激派」がワシントンで合衆国大統領ハリー・トルーマン(Harry Truman)の暗殺を企てたり、1954年には、あの有名な「合衆国下院議会」開催中に起きた「プエルト・リコ解放運動過激派」による発砲で議員5名が負傷するという事件が起きています。しかし1960年代に入り、「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」を経て、プエルト・リコの国民所得も上昇、人々の生活も徐々に向上してきました。それに連れて「独立派」の勢力も衰え、代わって「プエルト・リコの合衆国州編入を推進する勢力」いわゆる「合衆国州編入派」が台頭してきます。1967年にはプエルト・リコで初めての国民投票が行われ、「現状維持派」と「合衆国州編入派」の選択が国民の意思に委ねられました。結果は僅差で現状維持派が勝利し、その後も何回か国民投票が行われましたが、最終的にはプエルト・リコの「国体」は変わらず、「プエルト・リコ自治州」を維持しています。しかし、今年の6月非公式ながら国民投票が実施された結果、僅かながら合衆国州編入派の票数が現状維持派を上回りました。合衆国政府もこれをうけて、「今後プエルト・リコの国体変更には前向きに検討する」と表明しています。
そんな中、2017年9月20日ハリケーン「マリーア(María)」がプエルト・リコを直撃、40人以上の死者、全島48時間以上の停電、多くの建物の損壊、大規模水害、飲料水と食料品不足などの大災害が発生しました。カリブのシンボルである「椰子の木」も大半が損傷を受け、全島復旧には4〜5年かかるだろうといわれています。問題は、災害発生後5日も経って、ようやく軍隊の救援隊投入や災害特例法の発令されるなど、合衆国政府が取るべき救援対策が大幅に遅れたことです。そのため、被害がさらに拡大しました(日刊紙「ワシントン・ポスト(The Wasington Post)」の報道によれば、ゴルフ場で休暇を過ごしていたトランプ大統領は、プエルト・リコ大災害の報告を受けても無関心で、直ちに行動を起こさなかっということです)。このときのこの現実に直面したプエルト・リコ国民の反応は複雑でした。合衆国政府に対する不満が爆発したのは当然ですが、またしても国論が二分されました。すなわち、国体の現状維持派は、「プエルト・リコは所詮植民地で、合衆国政府と国民の大半はプエルト・リコを合衆国の一部と認識していない。我々に市民権を認めたのも徴兵が目的だった」ことを改めて思い知らされたと受け止め、合衆国州編入派は、「プエルト・リコが合衆国の1州になっていれば、もっと素早く手厚い救援対策を得られたはずだ」という主張を強めたのです。一方悲惨な現状から逃れるため、国民は続々と島を離れています。加えて、ここ数年プエルト・リコが財政破綻に陥り(これも、元はといえばプエルト・リコに対する合衆国の一方的な交易政策が原因という意見が有力です)、最近になって合衆国政府により「破産自治体」の認定を受けました。これらの結果が、300万人を超える「プエルト・リコ国民」にどのような影響がでるのか予断を許しません。
ところで、プエルト・リコが「アメリカ合衆国の51番目の州」になったらどうなるのでしょうか? 勿論、公用語は英語になり、プエルト・リコのアイデンティティーも相応になくなるでしょう。気になるのは、アメリカ全土に住む、本国より多い約500万人と言われるプエルト・リコからの直接移住者、或いはプエルト・リコ系人の気持ちです。これらの人々は、現在「アメリカ人」です。彼らのプエルト・リコ人としてのアイデンティティー意識はどうなのでしょうか。先日テレビのドキュメンタリー番組で、メキシコから不法入国し、現在はアメリカの市民権を獲ているメキシコ人夫妻のインタビューを紹介していました。その中で、彼らがトランプ大統領の「メキシコ人の不法入国を断固拒絶する」政策に賛成していました。理由は、これ以上のメキシコ系アメリカ人が増えるのは彼らにとって好ましくない、というものでした。このコメントには驚きましが、考えさせられました。アイデンティティーに対するこだわりには、個人差があるようです。いずれにしても、この課題はプエルト・リコの人々の問題で、我々よそ者が ‘どうのこうの’ 言うことではないことは明白です。プエルト・リコの人々の決断を待つしかありません。
ただ私としては、将来米国の歴史書に「その昔プエルト・リコ州にはラテントリオという素晴らしい音楽があった」などという記述が載らないことを願うばかりです。
(Ⅲ)カリブのラテン音楽とアフリカ(La música caribeña y de Afro)
私なりに平易、簡潔に述べます。プエルト・リコ歌謡には、「三つのルーツ(Tres Raíces)」というフレーズがしばしば登場します。この場合の三つのルーツとは「タイーノ」「スペイン」「アフリカ」のことです。つまり、プエルト・リコ人にはタイーノ、スペイン、アフリカの血が混じり合って流れている、という意味です。言い得て妙だと思います。なぜなら、この三つのルーツは、必ずしもプエルト・リコ人だけでなく、カリブ全域の人々に当てはまるものだからです。ただ、3種の血の ‘混ざり具合’ が国によって違うところが重要です。
ご存知のとおり、今のカリブの人々の中にタイーノの血はほとんど入っていません。ただ、残る「二つのルーツ」すなわちスペインとアフリカの血は脈々と流れています。ただし、「コロンビア共和国(República de Colombia)」と「パナマー」を除きカリブ海周辺諸国にはアフリカ系の人々はそれほど多くありません。ですから、「カリブのラテン音楽とアフリカ」のテーマに適合する国々は、カリブ海に浮かぶ島々とコロンビア、パナマーということになります。中でもキューバ、ドミニカ共和国、ジャマイカ、、ハイチ、小アンティル諸島には多くの「アフリカ系」の人々、すなわち「純粋なアフリカ人」プラス「ムラート(Murato)」などの「混血アフリカ人」が住んでいます。プエルト・リコは、大アンティル諸島の中では例外的にアフリカ系の人々が少い国です。
ちなみに2009年の統計では、キューバにおけるアフリカ系人の人口は総人口に対しては35%、同ドミニカは84%、コロンビアは18%、プエルト・リコは11%になっています。非スペイン植民地のジャマイカ、ハイチは、それぞれ91%と100%と高い数値を示しています。キューバの35%が小さいように思われますが、人口約11,240,000に対する割合なので、総数から見れば決して少なくはありません。先ほどのMLBでプレーする「カリブ出身の選手」の活躍を見ても、この割合が納得できます。では、なぜこのような多くのアフリカ系の人々がカリブに存在するようになったかを、おさらいしてみましょう。
①1492年コロンブス侵入→略奪開始
②スペイン人一旗組の大量植民
③殺戮/持ち込まれた感染症の蔓延/過酷労働→先住民(タイーノ)の人口激減
④砂糖キビ栽培/牧畜用の労働力逼迫
⑤タイーノ絶滅→労働力確保の絶対的必要性発生
⑥スペイン/ポルトガル奴隷商人暗躍→アフリカ人のアフリカからの大量拉致
⑦さらなるアフリカ人の大量拉致
と、いうことになります。これを見ると、カリブのほかの国々に比べ、プエルト・リコにはアフリカ系の人々が少ない理由がわかります。つまり、プエルト・リコには大規模な農業や牧畜に適した十分な土地がなかったのです。
このようにして「アフリカ系の人々固有の音楽」が、カリブのラテン音楽の中で重要な位置を占めるようになりました。このテーマについては、多くの書籍や解説書がありますので、詳しいことはそちらにお任せすることにして、ここではごく簡単に記述します
一般に、カリブのラテン音楽の主役はキューバ、プエルト・リコ、ドミニカ、コロンビアです。(「ジャマイカ」と「ハイチ」はスペイン語圏ではないため、私の解釈で「ラテン音楽」のジャンルから外させていただきます)。しかし、コロンビアとドミニカは別にして、カリブ海に浮かぶ兄弟のような二つの島、キューバとプエルト・リコの音楽には ‘似て非なる’ ところがあるようです。それは前述のように、キューバとプエルト・リコではアフリカ系の人数が極端に違うからです。ご存知のとおり、キューバには「アフロ」と名のつく強烈にビートの効いた、身体で直接受け止めるような音楽が多数あります。一方プエルト・リコには、このジャンルの音楽としては「プレーナ(Plena)」と「ボンバ(Bomba)」の二つしかありません。近年ラテンアメリカ以外でも、ダンス音楽「サルサ(Salsa)」の演奏は聴くことができます。これは典型的なアフリカ系音楽です。このサルサさえも、プエルト・リコの人々が演奏すると、キューバのそれとは何処か違います。綺麗な言葉で言えば、「優雅」に聴こえるのです。この際、両国の国民楽器、キューバの「トレス(Tores)」とプエルト・リコの「クワトロ(Cuatro)、後出」を比べてみるのも一興かも知れません。楽器の構造の違いもさりながら、音色が微妙に違うのです。クワトロの方がやはり優雅に聴こえます。両国どちらにも、小編成の楽団「コンフント(Conjunto)」があります。中でも「6重奏団(Sexteto)」と「7重奏団(Septeto)」がその代表格です。しかも、このコンフントの演奏家の中にはアフリカ系ミュージシャンが目立ちます。そのせいか、近年プエルト・リコではコンフント楽団は姿を消しました。しかしキューバでは、今でもこの編成が健在、というよりも、むしろ主流です。
最後に「ラテントリオ」です。『カリブのラテントリオ』にも詳述されているとおり、20世紀に入り、カリブ特にキューバとプエルト・リコではポピュラー音楽、いわゆる我々が「ラテン音楽」と呼ぶ音楽が生まれます。その中にトリオもありました。しかし、それらは《トリオ・ロス・パンチョス(Trío Los Panchos)》に代表される現在のトリオではなく、ギターなどの弦楽器をや打楽器を使える人と、歌える人が3〜4人集まる演奏スタイルでした。本格的なトリオの登場は、1925年頃のキューバの《トリオ・マタモーロス(Trío Matamoros)》やプエルト・リコの《トリオ・ボリーンケン(Trío Borinquen)》からです。
これら二つのトリオは、それぞれの国の伝統音楽をベースにした独創的な演奏で、センセーションを巻き起こしました。しかし極論すれば、アフリカ系演奏家によるアフリカ系音楽でした。その後キューバではこの「アフロ色」の濃い《トリオ・マタモーロス》スタイルが定着しましたが、プエルト・リコは全く別の道を歩み始めます。すなわち、プエルト・リコのトリオ音楽からアフロ色が次第に消え、「プエルト・リコ独自のトリオ音楽」が生まれ、育ったのです。この《トリオ・ボリーンケン》から始まったプエルト・リコのトリオの歴史こそが、まさに『カリブのラテントリオ』の主テーマになっています。
さらに、トリオ音楽が盛んなカリブ海周辺諸国の一つメキシコと、カリブから地理的に遠く離れた、ペルー、エクアドル、ボリービア、パラグワイ、チリなどの南米諸国に於いては、トリオ音楽に関する限り、アフリカ系音楽の影響はほとんど受けていません。言い換えれば、ラテントリオ音楽の主流は、「スペイン系の人々の音楽」、ということになります。ただし、スペイン系の人々のルーツを辿ってみれば、有史以来「イスラム」や「アジア」、そして「他のヨーロッパ諸国」の人々の血が複雑に混じり合っていることも忘れてはなりません。
かつて、キラ星のように輝いていた多くのカリブのラテントリオ、プエルト・リコのトリオの「アルバム」の中で、一際異彩を放ちながら、それほど評価されていないアルバムを、後段の第3章で紹介します。それは、プエルト・リコを代表する音楽家フリート・ロドリーゲス・レイエス(Julito Rodríguez Reyes)が《トリオ・ロス・パンチョス》退団直後結成した《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の残した素晴らしいべストアルバム・シリーズ(5枚組)です。