(Ⅰ)初めに(Introducción)

A
フリートとの出会い(Encuentro con la música del maestro Rodríguez)
フリート・ロドリーゲス・レイエス

フリートの愛称でプエルト・リコの人々に愛されたフリート・ロドリーゲス・レイエス(Julito Rodríguez Reyes)は、プエルト・リコのサン・ホワーンで2013年7月27日、87歳と9ヵ月の生涯を終えました。遺骸は、サン・ホワーン郊外の「バヤモーン(Bayamón)市」にあるアメリカ合衆国とプエルト・リコの国旗がはためく「国立陸軍墓地」に葬られています。私は亡くなった翌年の2014年11月に墓参を果すことができました。

フリートが眠る「国立陸軍墓地」

フリートが眠る「国立陸軍墓地」

私と彼の音楽との最初の出会いは、大学に入学して間もない1958年、青春真っ盛りの頃でした。そもそも私がラテン音楽にハマったきっかけは、御多分に漏れず《トリオ・ロス・パンチョス》の【べーサメ・ムーチョ:Bésame Mucho】や【キエーレメ・ムーチョ:Quiéreme Mucho】などを聴いてからです。私にとってその記念すべき1枚のLPは、今から思えば奇妙きてれつなもので、ジャケットの表裏に載せられている《ロス・パンチョス》の写真にはアルフレード・ヒル(Alfredo Gil)、チューチョ・ナバーロ(Chucho Navarro)、そしてフリート・ロドリーゲスが並んでいました。中身といえば、12曲中上記2曲も含めたほとんどが、ラウール・ショウ・モレーノ(Raúl Shaw Moreno)がファーストボイスで、1951年にアルゼンチンとブラジルでレコーディングされた、いわゆる「ラテン音楽のスタンダード曲」ばかりでした。ほかには、それよりも遥か前にレコーディングされた、エルナーンド・アビレース(Hernando Avilés)がファースト・ボイスの【愛なくば:Sin Un Amor】と【あなたなしでは:Sin Ti】、そしてラウール・ショウ・モレーノに代わってフリート・ロドリーゲスが《ロス・パンチョス》のファーストになり、レコーディングした【バージャ・コン・ディオス:Vaya Con Dios】と【アンナ:Anna】などが収められていました。このLPは、何の知識もなかった当時の「日本コロンビア社」の担当ディレククターが曲目を選択し、部内の誰かが添付されていた横文字の資料をもとに ‘適当’ な解説を書いたものであることは歴然としています。

LP

それはともかく、このアルバムになぜフリート・ロドリーゲスの2曲が入っていたのでしょうか? それは、【バージャ・コン・ディオス】と【アンナ】が、当時の人気ジャズシンガーの江利チエミさんが日本語で歌ってヒットしていたため、だと思っています。ただ、これらの事柄は後年、それも大分経ってから分かったことです。無我夢中でラテン音楽を聴きまくっていた当時の私の耳には、そんな話は届きませんでした。しかしながら、それらの ‘聴きまくっていた’ ラテンナンバーの中に、《ロス・パンチョス》の【海と空:Mar Y Cielo】がありました。これが私にとっての、フリート・ロドリーゲス音楽との最初の出会いです。

LPの解説には、それがフリートの作品で、歌っている人もフリート自身であることくらいは書いてあったのでしょう。しかし、私自身はそんな事にあまり興味がなく、ましてや、その曲がどのような経緯で生まれたのかなど知る由もありませんでした。ただし一つだけ、今でも心に残っていることがあります。それは、この曲を初めて聴いたときの ‘感触’ です。ほかのパンチョスの歌とは違う ‘何か’ があったからです。その感覚は今でもよく覚えていますが、残念ながらそのときは、それが何であるのかは理解できませんでした。

実際にフリート・ロドリーゲスの音楽として惹かれたのは1962年、そろそろ大学の卒業が近づいてきた頃でした。それは、オープンリールのテープにダビングされた《フリート・ロドリーゲスと彼のトリオ(Julito Rodríguez y Su Trío)》(後述の《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》)の演奏を偶然に聴いたときです。これが、2度目のフリート・ロドリーゲス音楽との出会いになりました。

このときの衝撃は今でも忘れません。それまで慣れ親しんできた一連の《ロス・パンチョス》のトリオ演奏とは明らかに違う ‘何か’ があったからです。しかしまたしても、後年そのアルバムが私にとって最高の宝物になるとはつゆ知らず、演奏家/国籍/作曲家の詳細なバックグラウンドなどを深く探求するところまでには行きませんでした。ただし、その音源を突きとめ、『アンソーニア(Ansonia)』レーべルで何枚かのシリーズで発売されていることだけは分かりました。私が「アンソーニア・レコーズ社(Ansinia Records, Inc.)」を知ったきっかけです。ただそのときは、その37年後何度もその事務所を訪れ、社長のメルセーデス ”タティ” ぺレス・グラース(Mercedes “Tati” Pérez Glass)さんともお会いし、彼女の計らいで、サン・ホワーンにいるマエストロ・ロドリーゲスに会えることになろうとは夢にも思いませんでした。

B
《トリオ・ロス・パンチョス(Trío Los Panchos)》と《フリート・ロドリーゲス・トリオ》の来日(El primer concierto en vivo de《Trío Los Panchos》y《J.R.R. Trío》en Japón)
PANCHOS EN TOKYO

大学在学中、日本のラテン音楽史上最大の出来事がありました。1959年《トリオ・ロス・パンチョス》が初めて日本を訪れたのです。これはまさに、日本のラテン音楽界というより、日本の軽音楽界全体に大センセーションを巻き起こしました。私自身も、この公演でアルフレード・ヒルが弾く「レキント(Requinto)」を初めて目の前にし、感激を通り越してショックを受けました。このときの《ロス・パンチョス》のファーストボイスはプエルト・リコ出身のジョニー・アルビーノ(Johnny Albino)でした。しかし彼が、それより15年前に《ロス・パンチョス》が結成されて以来、初代のエルナーンド・アビレースから数えて歴代4人目のファーストボイスであることくらいしか知りませんでした。今考えてみれば、一部の人々を除き、一般のラテン音楽愛好家にそのような情報があまり浸透しなかったことが、その後の日本におけるラテントリオ音楽の発展にとってマイナス要因になったような気がします。この《ロス・パンチョス》の日本公演の大成功が「呼び屋」と称されるプロモーターを大いに触発し、その後続々とメキシコを筆頭にラテンアメリカの演奏家たちが来日するようになりました。その中にフリート・ロドリーゲスの《トリオ・ロス・プリーモス》も入っていたというわけです。それが以下に述べる私にとっての、フリート・ロドリーゲス音楽との3度目の出会いです。

フリート・ロドリーゲス・トリオ

1968年7月31日(木)の夕方、《フリート・ロドリーゲス・トリオ》の演奏をオープンリールで初めて聴いた6年前のあの感激をもう一度味わいたいと期待に胸を膨らませ、《トリオ・ロス・プリーモス》の日本公演を聴くため「日比谷公会堂」に向かいました。しかし、その期待はものの見事に裏切られたのです。全く別のトリオを聴いているような感じを受け、落胆と無念、それに惨めさが混じった、なんともいえぬ気持ちで帰路についたことを記憶しています。今にして思えば、そのわけは幾つかあったのです。

まず第1に、これはマエストロ・ロドリーゲスから直接聞いた話でもあるのですが、初対面のプロモーターから演奏曲目はできるだけ日本人に馴染みのあるもの、例えば【べーサメ・ムーチョ】【キサース・キサース・キサース:Quizás, Quizás,Quizás 】それに【キエーン・セラ:Quién Será】といったポピュラーな曲から選んでくれ、という注文があったらしいのです。第2に、6年前の1962年にテープやLPで聴いた演奏は、来日した1968年から遡ること9年前、《フリート・ロドリーゲスと彼のトリオ》(前述の《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》)によって1959年にレコーディンされたもので、その後トリオはメンバーはもとより、演奏スタイルもレパートリーも変わっていた(後述の《フリート・ロドリーゲス・トリオ(B)》)、という事実です。最後は観客の反応です。じつはこれが、ラテンアメリカのミュージシャンのライブ演奏を聴くとき、その出来具合を左右する一番のキーポイントであることは良く知られています。【べーサメ・ムーチョ】や【キサース・キサース】には万雷の拍手が起こるのに、演奏者が心をこめて歌う馴染みのない曲にはお座なりの拍手、これでは演奏するほうも次第に ‘ヤル気’ が失せてくるのは当然です。私が彼らの日本公演を聴くことに気が進まない理由の一つです。彼らが本国で聴衆と一体となって熱演するのを観てしまうと、そう思わざるを得ません。この点に関してマエストロ・ロドリーゲスの言は、❝日本の聴衆はすばらしい。演奏中は静かに聴いていたかと思うと、演奏が終わるや万雷の拍手をしてくれた❞ そうです。これを聞いたとき、私は彼の優しい人柄を感じたのと同時に、 ‘背中がむず痒い’ 感じがしたのを覚えています。

C
プエルト・リコへ(Un Japonés, el cautivo de la canción puertorriqueña)

私は、生まれて初めて《ロス・パンチョス》のライブ演奏を聴いて以来55年余、LP/オーディオ・テープ/CD/ビデオ・テープ/DVDを通して、北はメキシコから南はアルゼンチン/ブラジルまで ‘ラテン音楽の旅’ をしてきました。その間現地で何度もライブ演奏にも接し、十分堪能したと思っています。そして、再びトロピカル音楽の原点に戻り、キューバとプエルト・リコに辿りつきました。

「アンソーニア」事務所」

「アンソーニア」事務所
メルセーデス“タティ“グラース社長(中央)
ご子息のゲリー・グラース氏(左)筆者(右)

定年退職間際の1990年代後半、再びあの懐かしい音楽が私の心によみがえります。1962年に聴いた一連の《フリート・ロドリーゲス・トリオ》の ‘缶詰演奏’、つまりライブではなくテープやLPで聴いた演奏です。それらもその頃にはCD化され、後述の5枚組アルバムになっていました。定年退職後の1999年暮、二ュージャージーの「アンソーニア・レコーズ社」を初めて訪れ、 “タティ” グラース社長にお会いし、彼女の紹介でプエルト・リコのサン・ホワーンで、憧れのマエストロ・フリート・ロドリーゲスと対面することができました。その結果、彼のライブ音楽をタップリ聴くことができたことが、彼の音楽との4度目の出会いです。

そのとき、マエストロは74歳の高齢だったはずですが、矍鑠たるもので、第一印象も派手でキザっぽい浮ついたミュージシャンではなく、お洒落で落ち着いた、シャキッとした ‘格好のいい’ 紳士でした。忘れられないのは、翌日から2日間に亘ってライブ演奏に同行させてくれたうえに、ラム酒メーカー「バカルディー(Bacardí)社」のパーティーにお供を許され、ラム酒のお土産までいただいたことです。まさに感激の2日間となりました。その2年後、『カリブのラテントリオ』の原著者パブロ・オルティース氏に会う目的で再びサン・ホワーンを訪れた際、お電話をしましたが、エクアドルに演奏旅行する直前のため、お会いできませんでした。2008年オルティース氏に連れられ、邦訳成った『カリブのラテントリオ』を贈呈する目的でサン・ホワーンのご自宅を訪問したのが、マエストロにお目にかかれた最後になりましたした。

この項の締めくくりとして、私なりに感じたフリート・ロドリーゲスの ‘人となり’ を述べます。一口で言えば、感受性が強く、ほかの人をいたわる気持ちに溢れる誠実な人だと感じました。ただ自らのこととなると、決して ‘本性を現さない’ 頑固な性格だったような気がします。この点、プエルト・リコの著名な音楽評論家ロサーウラ・べガ・サンターナ(Rosaura Vega Santana)女史が「彼との会話の時間はいつも長いのですが飽きさせません。それでいて終わってみると、その間彼が自分のことをこれっぽっちも話していなかったことに気付かされます」(「素描・フリート・ロドリーゲス・レイエスの足跡と音楽」『ポピュラー歌謡』La Canción Popular誌、第10号) と述べているのも頷けます。私にとっても、このフリートの ‘本性を現さない’ 性格が、彼の作品を聴く際の難関になっています。素晴らしい歌詞なのですが、その曲想が生まれた経緯やバックグラウンドについて何もつきとめられないからです。これについても上記サンターナ女史は同著の中で、フリート・ロドリーゲス音楽の全般に亘り深く検証しています。例えば【海と空】です。ご存知のとおり、彼の数ある作品の中でもこれほど世界中で歌われた曲はありません。この曲については、後段の第3章べストアルバム・シリーズ (5枚組) (Ⅲ)第3集 7.【海と空:Mar Y Cielo】で詳しく述べます。この歌が誕生したときの様子は、『カリブのラテントリオ』(167頁〜168頁)でオルティース氏が詳述しています。つまり、この曲が「何処でどのようにして生まれたか」は、はっきりしています。しかしながら、曲が 「突如脳裏に浮かんだ」 理由とか、どのタイミングで浮かんだのか見えてきません。私はそこにこだわりました。その結果私がとった行動についても、後段の同項でご紹介します。

以下は私見です。ラテン音楽に限らずあらゆるジャンルの音楽を聴く際、その曲が作られたバックグラウンドを知ることはその曲を理解する上で大変役に立つことはあります。しかし、音楽鑑賞は所詮感覚の問題です。聴く人それぞれによって異なった感想があるのは当然で、その感想を自分なりに分析するのは別の話だと思っています。音楽にとって、それを聴いてくれる人の感覚こそが総てではないでしょうか。

(Ⅱ)歩み(El camino a los mejores 5 albumes)

A
デビュー(Debut)《トリオ・ロス・ロマンセーロス(Trío Los Romanceros)》

トリオ・ロス・ロマンセーロス

トリオ・ロス・ロマンセーロス
(フェリーペ・ロドリーゲス/
フリート/ソテーロ・コリャーソ)

彼らのレコーディング(78回転SP)が行われた1947年から1950年にかけては、アビレースの《ロス・パンチョス》がまさに第1期黄金期を迎えている時期にあたります。フリートが《ロス・パンチョス》を十分に意識していたことは間違いありません。そのため彼は「パンチースタ(Panchista)」つまり「パンチョスマ二ア」と呼ばれるのを嫌って ‘パンチョススタイル’ のボレーロをレパートリーに入れることを意図的に避けていたような気がします。 勿論【我々の恋:Nuestro Amor】(同名の《ロス・パンチョス》のヒット曲とは別物)や【病の恋人:Mi Novia Está Enferma】のような典型的 ‘パンチョススタイル’ のボレーロも入っていますが、全体的に彼が作曲した「ヒーバロ(Jíbaro)歌謡」(次の第2章(Ⅲ)Bで詳述)を中心に郷土色の強い作品を採り上げていたような印象を受けます。 彼はラファエール・エルナーンデス(Rafael Hernández)、ペドロ・フローレス(Pedro Flores)、ボビー・カポー(Boby Capó )、ノエール・エストラーダ(Noel Estrada)、ロべールト・コーレ(Roberto Cole)などのプエルト・リコを代表する作曲家と同様、「ボリンカーノ/ボリークワ(Borincano/Boricua)」すなわち「プエルト・リコ/プエルト・リコ人」としての誇りに加え、それに対する強い ‘こだわり’ と ‘想い’ を持っていました。これは、彼の長い演奏家/作曲家としての生涯を通して一貫した姿勢でもあるのです。後段で詳しく述べますが、このことこそが1956年に彼を《ロス・パンチョス》から離れる決意をさせた最大の動機と、私は捉えています。

《トリオ・ロス・ロマンセーロス 》の誕生から解散までの足跡は『カリブのラテントリオ』で、著者オルティース氏がかなり丁寧に辿り、100頁から108頁に亘って詳しく記述しています。このトリオのオリジナルメンバーで、後年プエルト・リコで最も人気のある大歌手の一人となったフェリーペ・ロドリーゲス(Felipe Rodríguez)と、フリート・ロドリーゲスとの仲違いのエピソードなども記されています。

なお余談ですが、『カリブのラテントリオ』にはこの二人が親戚関係にあったことは触れていません。私はオルティース氏からこのことを聞かされ、マエストロ本人に確かめたところ(勿論誰から聞いたかは言いませんでしたが)、❝なんで君はそんなことまで知っているんだ?❞ と笑いながらもビックリした様子でした。そのとき一瞬、シマッタ!失礼なことを訊いてしまった!と思いました。しかしその後マエストロが色々な所で私を人に紹介する際、 ❝この男は俺とフェリーペが親戚だということまで知っているんだ❞  と笑いながら話していましたので、彼にとって特にタブーな話ではないことが分かり、 ‘ホッ’とした記憶があります。

『カリブのラテントリオ』にもあるとおり、《ロス・ロマンセーロス 》の最初のレコーディングは1947年、《ロス・パンチョス》の結成後3年、フリートが弱冠22歳のときに行われました。それはSP2枚4曲でした。このSP2枚4曲という数字はデビューとして決して小さいものではありません。当時の彼らの人気を物語るものだと思います。《ロス・ロマンセーロス 》は、その後もSP盤を多数出しています。その中で、フリート自作の【誰と話そうか:Con Quién Habrá Que Hablar】と【つかの間:Un Momento】の2曲は後年《ロス・パンチョス》で再レコーディングされました。後者の【つかの間】に関しては、次項Bのeフリート・ロドリーゲスの退団でくわしく触れます。興味深いのは、このときの彼らの最大ヒット曲【7回の口づけ:Siete  Besos】が《ロス・パンチョス》のレパートリーに入っていないことです。その理由については、第3章ベストアルバム・シリーズ(Ⅰ)第1集 9.【7回の口づけ】の紹介の中で推論します。

特筆すべきは、上記デビュー盤の4曲全部がフリート・ロドリーゲスの作品だということです。その中に「ヒーバロ歌謡」の【クリスマス模様:Aires De Navidad】があります。この曲は、10数年後にフリート/フニオール・ナサーリオ(Junior Nazario)、本名アンヘル・フニオール・ナサーリオ・ラモス(Angel Junior Nazario Ramos)/ラファエール・シャローン(Rafael Scharón)ら3人による《フリート・ロドリーゲス・トリオ(B) 》によっても再録されました。しかしヒーバロ歌謡独特のリズムの一つである「アギナールド(Aguinaldo)」にのって演奏される《ロス・ロマンセーロス 》の【クリスマス模様】は、フリートの清々しい声と格調高い歌唱スタイル、両ロドリーゲスのドゥオを軸に良くハーモナイズされたトリオのコーラス、ソテーロ・コリャーソ(Sotero Collazo)の達者なギターテクニックなどと共に、堂々たる出来栄えになっています。同時にフリート自身の ‘こだわり’ と ‘想い’ も伝わってきます。エンディングで聞こえるフリートとフェリーペ両ロドリ−ゲスの掛け合いも、今となっては貴重なサウンドになりました。

ご参考までに、この記念すべきナンバーを下記に紹介しておきます。長い歌詞の対訳で恐縮ですが、その中にご注目願いたい箇所があります。それは中頃の♪俺は可愛い娘に惚れたよ:Yo me enamoré・・・♪ から、♪かけやがって:gasta su dinero・・・♪ までの部分と、後半の♪砂原に子株を:Sembré una matita・・・♪ から、♪芽がでるか:dando florecitas・・・♪ までの2箇所です。これらは、同じメロディーを繰り返しながら同じ歌詞=フレーズ=行を反復していて、明らかにフリートがヒーバロ歌謡を意識してこの曲を作っていると思われるからです。特に初めの♪俺は可愛い娘に惚れたよ♪の一節は、キッチリ10行に収まる「デーシマ(Décima)=10行詩」になっています。歌詞の内容も、その二つの箇所だけは「クリスマス」に関係なく、ヒーバロ=農民の一人が日常のことを歌っている典型的なヒーバロ歌謡です。

【クリスマス模様:Aires De Navidad】「アギナールド」

Llegan las Navidades

trayendo mensaje de felicidad.

Todo Puerto Rico,

la gente se apresta a cantar y gozar.

Suena el cuatro y la guitarra

repicando aquí, allí.

Las décimas y aguinaldos,

música que dice así:

Las décimas y aguinaldos,

música que dice así:

De tierra le-si-me-dan-paz,

Noche de paz, noche de;

 

幸せを運んでくれる

クリスマスがやってきた

プエルト・リコ中の人々は

楽しそうに歌の準備にとりかかる

クワトロやギターの音が

そこ此処で鳴り響く

音楽に合わせて

デーシマやアギナールドが聞こえる

音楽に合わせて

デーシマやアギナールドが聞こえる

幸せがやってきた!

メリークリスマス!

 

♪Yo me enamoré de una niña linda.

Salió más bonita de lo que pensé.

Pero más después me salió traidora,

por engañadoras que son las mujeres,

eso le sucede al que se enamora.

eso le sucede al que se enamora.

El que se enamora por andar alegre

El que se enamora por andar alegre

gasta su dinero y el tiempo lo pierde.

gasta su dinero y el tiempo lo pierde.♪

De tierra le-si-me-dan-paz,

Noche de paz, noche de amor

 

♪俺は可愛い娘に惚れたよ

考えられないほど綺麗だったな

だけど間も無く裏切られたよ

女なんて皆んなそんなもんだ

それが惚れた弱みと

いうもんだ

見ろよ、惚れあった同士が

楽しそうに歩いてやがる

金と時間を

かけやがって♪

幸せがやってきた!

メリークリスマス!

 

♪Sembré una matita en un arenal.

Sembré una matita en un arenal.

No me dio producto, la volví a arrancar.

La volví a sembrar en terreno nuevo.

No tenía consuelo al ver mi matita

dando florecitas el día de año nuevo.

dando florecitas el día de año nuevo.♪

De tierra le-si-me-dan-paz,

Noche de paz, noche de amor

 

♪砂原に子株を埋めたんだ

でも育たなかったので

引っこ抜いてやったぜ

懲りずに別なところに植えたけど

どうなるか心配だ

来年の今頃

芽がでるかどうか♪

幸せがやってきた!

メリークリスマス!

 

B
第一歩(Primer paso adelante)《トリオ・ロス・パンチョス》(《Trío Los Panchos》)

a 黄金時代の二人(Comparación de J.R.R. con H.A. en la epoca de oro)

トリオ・ロス・ロマンセーロス

《ロス・パンチョス 》時代のフリート・ロドリーゲスを語るとき、どうしても避けて通れないのがエルナーンド・アビレースとの比較対照です。勿論、アビレースがヒル、ナバーロと共に結成した《ロス・パンチョス》がラテン歌謡界に残した偉業は絶大で、ラテン音楽界史上に一大金字塔を打ち建てたことに異論があろうはずはありません。

トリオ・ロス・ロマンセーロス

ですから、ここでは《ロス・パンチョス》におけるフリートとアビレースの優劣ではなく、アビレース時代からフリート時代になり、《ロス・パンチョス》のスタイルがどう変わり、どのような進化をとげたのか、さらにそれがフリートにどんな影響を与えたのかを検証してみたいと思います。

まず次の「比較表」をご覧になったうえで、以下の「分析」をお読みいただき、その先の「b.生い立ち」にお進みください。

「フリート・ロドリーゲス/エルナーンド・アビレース比較表」
(資料:パブロ・オルティース著『トリオ・ロス・パンチョス歴史と年代記(El Trio Los Panchos historia y crónica)
※J.R.R.=フリート・ロドリーゲス・レイエス(Julito Rodríguez Reyes)
H.A.=エルナーンド・アビレース(Hernando Avilés)

録音
総曲数
% A.ヒル/C.ナバーロ作曲数 % 自作曲数 % メキシコ人作曲数
(ヒル/ナバーロを含む)
%
J.(L.R.R.)
ロドリゲース
全122曲
年平均30.5曲
100 (28曲) (22.95) (10曲) (8.20) 59曲 48.36
H.(H.A.)
アビレース
全153曲
年平均17.0曲
100 (57曲) (37.25) (3曲) (1.96) 94曲 61.44
カリブ出身作家作曲数(メキシコを除く) % プエルト・リコ人作曲数 % その他の国(メキシコ、カリブを除く)作曲数 % 作曲家不明曲数 %
J.ロドリゲース 33曲 27.05 (20曲) (16.39) 23曲 18.85 7曲 5.74
H.アビレース 35曲 22.87 (8曲) (5.23) 24曲 15.69 0 0
巡業国
J.ロドリゲース 米国、メキシコ、カリブ、中米、ヨーロッパ、中東
H.アビレース 米国、メキシコ、カリブ、中南米

「分析」Análisis

  1. 年平均録音曲数:J.R.R.がH.A.よりも約2倍多い。
  2. 録音自作曲数/録音総曲数:J.R.R.がH.A.よりも約4倍多い。
  3. メキシコ人作曲数(ヒル/ナバーロを含む)/録音総曲数:J.R.R.がH.A.よりも約10%少ない
  4. プエルト・リコ人作曲数/録音総曲数:J.R.R.がH.A.よりも約3倍多い。
  5. J.R.R.の巡業国のなかに南米はないが、代わりにヨーロッパと中東が入っている。

b 生い立ち(Antecedentes)

1944年5月、アルフレード・ヒルとチューチョ・ナバーロが二ューヨークでようやくエルナーンド・アビレースを捜し当て、《トリオ・ロス・パンチョス》がこの世に産声を上げたときの3人の年齢は、ヒルが28歳、ナバーロが31歳、アビレースが30歳でした。つまり、3人はほとんど同年齢だったわけです。さらに、結成の経緯や結成前の芸歴を考えると3人は ‘同格’ でした。ただマネージメントの面では、ヒルがリーダーシップを発揮していたようです。レパートリーやアレンジなど音楽でもヒルがイ二シアティブをとっていました。性格的にはナバーロとはともかく、ヒルとアビレースは ‘水と油’ でした。このことが二人をたびたび衝突させた最大の要因だったといわれています。『カリブのラテントリオ』の著者オルティース氏によれば、ギャラは3人で平等に分けていたので金銭関係でもめたことはなかったそうです。彼が直接ナバーロから聞いた話では、ヒルとアビレースの意見が合わなかったのは音楽以外の件だったようです。たとえば、ある日の演奏が終了した後ヒルから ❝スポンサーから ‘お座敷’ がかかったので行かないか?❞ と誘われたときでも、アビレースは ❝自分は早く家に帰りたいから❞ と付きあわなかったそうです。このように二人の性格は全く逆で、ヒルは自由奔放、特に女性関係は華やかだったことは広く知られています。一方アビレースは家庭的で、メキシコ人の2度目の奥さんと彼女の連れてきた息子を大切にして、社交的な夜の付きあいはほとんどしなかった、ということです。

フリートが1952年10月《ロス・パンチョス》に ‘採用’ された経緯は『カリブのラテントリオ』(167頁〜)に詳しく記されています。それによれば、アルフレード・ヒルが友人のラファエール・エルナーンデスに巡業先のブラジルからはるばると電話をかけて、アビレースの後任を相談した時点で、彼は「3代目のファーストボイスはプエルト・リコ人の歌手」と決めていたことは確かなようです。またその意図もはっきりしています。時にフリートは満27歳になったばかりの若者で、ヒルとナバーロはそれぞれが37歳と39歳になっていました。ヒルから見れば彼は10歳年下、ナバーロにしてみれば、一回り年下の若輩でした。この年齢差、特にヒルがフリートよりも10歳上という事実は、後々《ロス・パンチョス》とフリートの運命を左右することになったのです。とはいえ、トリオ界の神様的存在であったこの二人はフリートにとって尊敬すべき大先輩であると同時に、トリオ音楽の師匠でもあったことには間違いありません。いくら彼が《ロス・ロマンセーロス》のファーストとして人気があったとはいえ、所詮プエルト・リコというローカルな音楽世界での話です。メキシコをはじめ、当時のラテン音楽の世界での認知度はゼロに近かったと思います。この点、アビレースが《ロス・パンチョス》に合流したときの彼は、すでに完成された歌い手としてメキシコなどで活躍していたのとは大いに異なります。ただ、アビレースが叩き上げの演歌歌手であったのに対し、フリートは中退とはいえ大学に進学し、バイオリンや管楽器の演奏もこなし、クラシック音楽の素地もありました。このことは彼がやがて《ロス・パンチョス》の押しも押されぬファーストボイスとして、アビレースと並び評されるようになれたことと無関係ではありません。

c レパートリー(Repertorio)

前段「フリート・ロドリーゲス/エルナーンド・アビレース比較表」と「分析」でお分かりのとおり、《ロス・パンチョス》に於けるの両名の存在と業績の違いは歴然です。さらに、アビレースは《ロス・パンチョス》を離れた後もメキシコに留まりました。彼はプエルト・リコ出身のミュージシャンの中ではラファエール・エルナーンデスと並んでメキシコに活動拠点を置いた一人で、レパートリーもボレーロに留まらず、「ランチェーラ(Ranchera)」から「ソン・ハローチョ(Son Jarocho)」まで広範囲に及んでいます。そしてメキシコ人女性と再婚し家庭を築き、メキシコで生涯を終えました。この点、ラファエール・エルナーンデスが後年はプエルト・リコに戻って活動を再開したのとは対照的です。とはいっても、若い頃プエルト・リコではそれなりに名前の知れた音楽家であったアビレースという歌手が、ラテン音楽の世界でメジャーな存在になれたのも、《ロス・パンチョス》に参加して革命的な大成功を収めたおかげであることは周知の事実です。ではアビレースに《ロス・パンチョス》に入ることを決意させたのは何だったのでしょうか? 私の答えはアルフレード・ヒルの存在だと思います。ヒルの音楽的才能の ‘すごさ’ は単なる天才の域を遥かに超えています。ナバーロはヒルとの最初の出会で、その才能の ‘すごさ’ に ❝コンプレックスを通り越して恐ろしさを覚えた❞(『カリブのラテントリオ』125頁)と語っています。ヒルがマネージメントに長けていたのは、彼の実父が商人の国で有名なレバノンからの移民であったことを知れば、なんとなく納得できます。

しかし音楽の才能となると、今となってはそのルーツは分かりません。ただ、幼少の頃からギター以外にマンドリンなどを弾きこなし、長じてピアノやクラシックギターを学んだと言いますから、クラシック音楽の素養もあったことは確かです。また、ラファエール・エルナーンデス楽団のギター奏者を務めたこともあって、エルナーンデスや、フラメンコギターの巨匠サビーカス(Sabicas)とも親交がありました。

では、当時も今もメキシコにはファーストボイスが ‘山ほど’ いるにもかかわらず、《ロス・パンチョス》の結成に際し、彼がなぜプエルト・リコ出身のアビレースに目を付けたかです。これにはヒルの出身地が大いに関係あると考えます。真偽のほどは別にして、ヒル自身が生まれ故郷と公言していた「べラクルース(Veracruz)」です。ご存知のとおり、此処はカリブ海に面した歴史ある由緒ある港町でアフリカ系住民も多く、山に囲まれた標高の高い「メキシコシティー(Mexico City)」とは全く別の文化を持った地域です。音楽もカリブの先住民やアフリカ系、それに ‘征服者’ たちが持ち込んだものがミックスしています。いわゆる ‘カリブの薫り漂う音楽’ です。ヒルがどの程度意識をしていたのかは不明ながら、この音楽が彼の心の中に深く根づいていたことは間違いないでしょう。となれば 、彼がトリオの3人目、すなわちファーストボイスを選ぶなら ‘カリブの薫り漂う男’ ということになります。実際《ロス・パンチョス》結成直後のレパートリーには【ラ・バンバ:La Bmba】など ‘カリブの薫り漂う音楽’ が数多く入っています。その後ヒルが「レキント」を考案して一大センセーションを巻き起こし、黄金期を迎えたのも、プエルト・リコ出身のアビレースが独特の歌唱スタイルと表現力で歌った彼らのボレーロが、今までのそれとは一味違った ‘カリブの薫り漂う’ ロマンチック・ボレーロだったからだと思います。

フリート・ロドリーゲス

一方、フリート・ロドリーゲスです。彼のバックグランドは ‘カリブの薫り漂う’ どころか ‘カリブそのもの’ と言っても良いでしょう。「エル・グエーロ(El Güero)」ことアルフレード “エル・グエーロ” ヒル がラファエール・エルナーンデスから電話でフリートを推薦されたとき即座にOKしたのは、エルナーンデスを信用していたのは勿論ですが、フリートの持つ ‘カリブそのもの’ に魅力を感じたからではないでしょうか。ヒルが《ロス・ロマンセーロス》のレコードを聴いて、ある程度フリートのことを知っていたかどうかは定かではありません。話としてはその方が面白いのですが、恐らく多忙な彼らにそこまでの機会はなかったでしょう。ですから『カリブのラテントリオ』(168頁)の記述どおり、1952年10月11日の土曜日、フリートから【海と空】を聴かされたときのヒルの衝撃は相当大きかったはずです。「感激したアルフレード・ヒルは、即座にピアノに向かい、イントロを弾き始めた」(同書)のは、その表れでしょう。じつはヒルにとって、このときがフリートとの初対面ではなく、すでに何度か音合わせをしています。その結果から、彼はフリートの特性をかなり理解していたはずです。しかし彼が【海と空】を聴いた瞬間、その後の《ロス・パンチョス》が向かう方向が決まったのでは?と想像するのも楽しいことです。さらに想像を膨らませると、ヒルはこのとき心の中で「この若者ならアビレースよりもさらにカリブ風の歌が歌える」と呟いたのかもしれません。これがあながち私の妄想ではない証拠があります。前出の「比較」と「分析」を見ていただくと、フリート《ロス・パンチョス》ではヒルとナバーロを含めたメキシコ人の歌が減り、プエルト・リコを含めたカリブの歌が増えています。さらにフリート自身の作品が10曲も入っていて、アビレースの3曲と対照的です。これは二人の才能の差かもしれませんが、それ以上にヒルの意向が強く反映されているとも考えられます。

ご参考までに、その10曲の【曲名】と(録音登録年)をご紹介しておきます。【誰と話そうか】(1953)、【命の洗濯:De Fiesta】(1953)、【海と空】(1953)、【愛しのパナマー:Panamá Querido】(1953)、【つかの間:Un Momento】(1953)、【俺の砂糖きび畑:Mi Cañaveral】(1954)、【たやすいこと:Tan Sencillo】(1954)、【乾杯:Brindis】(1954)、【もう一つの恋:Otra Historia De Amor】(1955)、【罪人:Delincuente】(1956)。

これでお分かりとおり、フリートの自作曲のほとんどは比較的早い時期にレコーディングされています。ヒルはカリブ色の濃い【プエルト・リコ:Puerto Rico】という曲を作り、1954年にフリートに歌わせました。ナバーロもプエルト・リコを歌った【遥かなるボリーンケン:Lejos De Borinquen】を作曲、1948年アビレースがファーストボイスで詠唱しています。フリート《ロス・パンチョス》は【遥かなるボリーンケン】をレコーディングしていませんが、フリートは1976年《ロス・トレス・グランデス》の最初のアルバムの中でこの曲を歌っています。

d パンチョス・ スタイルの変遷(Alteración)

その昔ラテン歌謡の世界で「パンチースタ」という言葉があったことは本第2章 (Ⅱ)A《トリオ・ロス・ロマンセーロス 》で述べました。これは、1948年頃から始まったヒル/ナバーロ/アビレースの《ロス・パンチョス》第1期黄金時代に、彼らを熱狂的に支持した人々の総称です。この当時の《ロス・パンチョス》の圧倒的な人気は、『カリブのラテントリオ』第8章「黄金時代」(147頁)に書かれています。そしてパンチースタは今なお全世界に存在しています。しかし日本でのパンチースタの出現は一般に、1959年ジョ二ー・アルビーノが加わった《ロス・パンチョス》の初来日後のことになります。従って ‘パンチョス・ スタイルの変遷’ から見れば、多くの日本人が《ロス・パンチョス》のスタイルを知ったのは、結成後15年を経過し、ファーストボイスもすでに4代目になった《ロス・パンチョス》から、ということになります。

話を元に戻しましょう。結成後間もない《ロス・パンチョス》が、なぜあのように大衆に受け入れられたのかを考えてみます。ニューヨークを舞台に、タイミング良く『コロンビア(CBC)』と専属契約を結べたことが、その大きな要因であることに間違いはないでしょう。(『カリブのラテントリオ』135頁)。しかし、音楽の観点から見れば、次の三つの要因が考えられます。1番目は、何といっても1945年アルフレード “エル・グエーロ” ヒルが自身で考案したという「レキント」の存在です。ただしヒル自身は当初この楽器を「レキント」と呼ばず、製作者「タターイ師(El Maestro Tatay)」の名前をとった「エル・タタ(El Tata)」と命名していました(同書137頁)。この楽器をヒルが考案したかどうかはこの際本題とは関係ありません。重要なことは、ヒルがこの楽器を縦横無尽に弾きこなし、彼が創作した独創的なイントロと間奏が、それ以降の ‘パンチョス・スタイル’ の最強の柱になったことです。『カリブのラテントリオ』でも著者オルティース氏は、「彼の弾くイントロはそれだけで立派な独立した曲だ」と述べています。次にアビレースの甘くとろけるような声色と年季の入った独特の歌唱力/フレージングが挙げられるでしょう。3番目の要因としてはヒルとナバーロ二人の自作自演オリジナル・ボレーロにあります。アビレース時代に彼らが作曲した歌の数は、編曲も含めて59に上ります。驚異的なのは、その後に作った曲を入れるとこの2倍以上になることです。ラテン音楽を問わずあらゆるポピュラー音楽の世界で、一つのグループでこれだけ多くのオリジナル曲を持ったのは後にも先にも《ロス・パンチョス》だけだと思います。

細かく挙げれば、彼らのレパートリーの国際性など、ほかにも色々あるでしょうが、以上の三つが《ロス・パンチョス》をあれほどまでの人気グループに押し上げた主な要因といえます。ヒルのリードレキントとそれを支える絶妙なナバーロのセカンドギターに、アビレースのソロと、バランスのとれた3人のコーラス、それにヒル/ナバーロのオリジナル曲の三つが織りなす ‘パンチョス・スタイル’ はメキシコばかりでなく、それまでのロマンティックなラテン歌謡に慣れ親しんできた多くの国々の人々にとって、極めて新鮮なものだったに違いありません。

ではフリート・ロドリーゲスに時代に入り、それまでの ‘パンチョス・スタイル’ がどう変化したのでしょうか? まずヒルのレキントです。フリートが加入した直後の1953年のレパートリーではアビレース時代ほどではありませんが、彼の独創的なイントロと間奏は健在で、従来の ‘パンチョス・スタイル’ を踏襲しています。しかしその後1954年、55年、56年と年を重ねるにしたがって、バンドネオーン、マリンバ、ビブラホーン、トランぺットといった旋律楽器が多用され、彼のレキントの役割に変化がみられます。つまり、上記のようなレキント以外の旋律楽器が、イントロや間奏を ‘とる’ ことが多くなったのです。フリートの《ロス・パンチョス》時代最後の1956年には、オーケストラ伴奏でも歌うようになりました。54年以降はトレモロを多用したイントロも増えています。ではいったいこれは何を意味するのでしょうか?

まず確認しておきたいのは、ヒルのレキントの役割の変化がすなわち彼の ‘手抜き’ の始まり、というわけではないということです。そのことはフリート《ロス・パンチョス》が1952年11月二ューヨークで初めてレコーディングした【海と空】から4年後の 1956年、恐らくフリート《ロス・パンチョス》最後のレコーディングになったと思われる【罪人】など、オーケストラをバックにして歌った一連の曲を聴いていただければ納得がいくでしょう。イントロと間奏こそオーケストラに任せていますが、ヒルの「レキント」も効果的に入り、立派な出来栄えに仕上がっているからです。

ほかにも明らかな パンチョス・スタイルの変化を示すナンバーがあります。1955年に登録されたアルフレード・ヒル作詞作曲の【闇:Mis Tinieblas】、フリートの【もう一つの恋】、ペドロ・フローレスの【ペルドーン:ごめんね:Perdón】などのボレーロです。これらは従来からの《ロス・パンチョス》のオーソドックスなスタイルをとってはいますが、それまでとは明らかに一味違います。それは、ヒルが1952年にフリートの【海と空】を初めて聴いたときから密かに胸に温めていたものなのでしょうか。

フリート・ロドリーゲス

‘パンチョス・スタイル’ の変化といえば、フリート・ロドリーゲスの歌唱スタイルが与えた影響は見逃せません。オルテイース氏の言葉を借りれば、「フリートの声はエルナーンド・アビレースに良く似ていたが、彼のは艶のある鋭く澄んだ声」(同書170頁)でした。さらに付け加えれば、彼はプエルト・リコの歌手独特の ‘節まわし’ を持たない素直なファーストボイスだったのです。唐突ですが、野球の投手に例えれば、アビレースは「変化球投手」で、フリートは「本格派の速球投手」ともいえます。これはヒル自身が最も感じていたことかもしれません。つまり、必然的にフリート《ロス・パンチョス》は、アビレース《ロス・パンチョス》とは違ったスタイルに変わらざるを得なくなっていったのです。この点、アビレース《ロパンチョス》が終始一貫同じスタイルで黄金時代を築いたのとは大きく異なります。

フリート・ロドリーゲス

フリート加入後の ‘パンチョス・スタイルの変遷’ は、録音/登録年代別のレパートリーにはっきりと表れています。1953年・54年を見ると、カリブの作家の作品が合計で22曲、年度/国籍不明以外の同2年間の吹き込み総曲数59の37%にあたります。それが1955年になると、6曲と26曲で23%、1956年には、3曲と20曲で15%となっています。つまり、53年・54年〜55年〜56年と年が経つにつれて、それぞれ37%〜23%〜15%と、カリブの作曲家の作品が減ってきていることを示しています。では、ヒルとナバーロの作品を含めたメキシコ人の曲はどうでしょうか? 同様な統計では、53年・54年が46%、55年が69%、56年が45%と、55年は突出していますが、全体から見ると顕著な傾向は見えません。 ヒルとナバーロの作品だけをとっても、それぞれ20%、15%、35%と同様です。つまりメキシコの曲はコンスタントにレパートリーに入っている一方で、カリブの曲の割合は53年・54年をピークにだんだん減っているのです。実際55年に『アグスティン・ララ特集』を、フリートが退団する直前の56年にはオーケストラ伴奏によるアルバムまでリリースしています。演奏スタイルも、フリートが入団した1952年から1954年までの3年間は、 ヒルのレキントがリードする ‘カリブの薫り’ 漂う作品を中心に、従来の ‘パンチョス・スタイル’ を踏襲していますが、55年からは前述のようにバンドネオーン、マリンバ、ビブラホーンなど、それまでトリオが採用しなかったメロディー楽器を多用するようになりました。これは、マエストロ・ヒルがフリートの歌唱と声色に合った新しいスタイルを模索していた結果のようにも思えます。スペインとニューヨークで2度にわたるオーケストラとの協奏も、ヒルがフリートの格調高い歌声を生かそうとする試みだった、と考えれば納得がいきます。このレパートリーと演奏スタイルの変化を見ていると、ヒルが求めていたフリート《ロス・パンチョス》の最終的なスタイルが、朧げながら浮かび上がってくるような気がします。つまりアビレース《ロス・パンチョス》が、8年間終始一貫同じスタイルで黄金時代を築いたのとは異なり、フリート《ロス・パンチョス》は5年間で徐々にスタイルを変えながら第2期黄金時代を迎えたことになります。

ロス・パンチョス

ところで《ロス・ロマンセーロス》は、プエルト・リコで絶大なる支持を受けたものの、ラテンアメリカの音楽界では所詮マイナーな存在であったことは前述しました。そのトリオのリーダーであったフリートが、いきなり超メジャーな《ロス・パンチョス》の花形ファーストボイスに抜擢されたのです。このときの彼の心境は千載一遇のチャンス到来、天にも昇る気持ちだったでしょう。しかし彼にとって、ヒルとナバーロの二人はこの道の大先輩であると同時に師匠格で、特にマエストロ・ヒルには ‘絶対的服従’ をしていたはずです。ヒル自身もフリートの才能に惚れ込み、レパートリーも最初の2、3年はカリブ色の強い曲を意図的に歌わせていたことは既に述べました。この間の曲を聴いていると、フリートがヒルにいわれるまま懸命に歌っているのが伝わってきます。そのフリートも1955/56年頃になると、ようやく《ロス・パンチョス》の一員としての自信と誇りを身につけ、伸び伸びと歌うようになってきました。名曲【ある恋の物語:Historia De Un Amor】などのボレーロを聴いていると、もはやアビレース時代の《ロス・パンチョス》とは一味も二味も違うことがわかります。それに合わせるように、ヒルは55年に『アグスティーン・ララ特集』をレコーディングします。このタイミングと、ヒルが数多いメキシコの巨匠の中から、なぜアグスティーン・ララを選んだのかはつかめませんが、興味あるところです。一つ考えられるのは、ララがヒルと同じカリブ海に面したべラクルース出身の作曲家だったことです。さらに想像を膨らませれば、フリートが師と仰ぐラファエール・エルナーンデスがメキシコ移住した後、ララと一時期肩を並べる音楽家であったことと無関係ではないような気がします。このアルバムでヒルは主にマリンバやトランペットをリード楽器として用い、レキントは抑え気味に、ロマン溢れるアグスティーン・ララの主題を表現しています。特筆すべきは、ヒルがそこまで考えたかどうかは別にして、張りのあるフリートの高音とヒル/ナバーロの渋い低音が巧みに共鳴し、堂々たるコーラスになっていることです。

panchos with orchestra

これは、フリート《ロス・パンチョス》最後の年となった翌56年、スペインとニューヨークでレコーディングされたオーケストラとの協奏によるアルバムでも、同様なことがいえます。

かくしてフリート《ロス・パンチョス》の新しいスタイルが誕生し、《トリオ・ロス・パンチョス》の第2期黄金時代の絶頂期が訪れました。しかし、フリート・ロドリーゲスはこの変遷のなか、何を感じていたのでしょうか?

e フリート・ロドリーゲスの退団(Se marchó de《Los Panchos》)

1956年も終わろうとする頃、フリートは、巡業先のべネゼーラで突然発病し、帰国、入院、《ロス・パンチョス》を退団、という事態を迎えます。時にフリートは31歳、アルフレード・ヒルは41歳、チューチョ・ナバーロは43歳でした。この間の経緯に関しては『カリブのラテントリオ』(178頁)に記述されていますのでご一読いただくとして、フリートに《ロス・パンチョス》退団の決意をさせたのは病気と過労、それに家族への思いが主たる原因であったことには間違いないでしょう。しかし、その理由だけで第2期黄金時代を謳歌している《ロス・パンチョス》の一員としての華やかな地位を捨てるでしょうか? しかも恩師ヒルとナバーロの熱い慰留を振りはらってまでも。人気の面もさることながら、金銭的にも当時の数あるトリオの中では抜群に安定した収入を保証されていたはずです。この点に関して、マエストロ・ロドリーゲスから直接聞いことはありません。ただ仮に聞けたとしても、彼の性格から恐らく本音は語らなかったでしょう。その理由は後述します。ですから以下は私の ‘当たらずといえども遠からず’ 的な勝手な推測です。

フリート・ロドリーゲス・レイエスが《ロス・パンチョス》の一員としてリクルートされた1952年当時、彼はすでに《ロス・ロマンセーロス 》のリーダーとしてプエルト・リコでは一世を風靡したアイドル的歌手ではありながら、その存在は所詮ローカルなものであったことは、繰り返し述べてきました。そんな彼から見れば、すでに世界を股にかけて活躍していた《ロス・パンチョス》は雲の上の存在だったことも既述しました。《ロス・パンチョス》に入るという話はプエルト・リコの人々にも仰天二ュースでしたが、彼にとっても正に ‘夢のような話’ であったはずです。ですから《トリオ・ロス・パンチョス》の一員としての最初の3年間、すなわち52年、53年、54年は前述のとおり、マエストロ・アルフレード・ヒルの指導のもとに夢中で過ごしたと思います。それが55年、56年黄金時代を迎えるにつれ、フリートは「マエストロ・ヒルの《ロス・パンチョス》スタイルと彼の目指す音楽が少しづつ離れて行くことに不安を感じるようになった」のではないかと考えます。特に56年のオーケストとの協奏は、その気持を決定的なものにしたのでしょう。ただし彼自身も晩年のレコーディングでは、このスタイルを多用していますので、それはそれで興味のあるところです。それはさておき、この音楽志向の乖離はどこから生まれたのかと言えば、ともあれヒルとフリートの年齢差だと思います。10年という歳の差は普通に見ても決して短いものではありませんが、こと音楽の世界となれば感覚的に完全に「一世代の隔たり」があります。

この年齢差以外にも、ヒルとフリートの感覚の ‘違い’ とおぼしき例があります。曲のタイトルとその部分の歌詞です。フリートが《ロス・パンチョス》で歌った自作曲【つかの間:ウン・モメーント:Un Momento】は、彼が《ロス・ロマンセーロス 》時代にレコーディングしてヒットしたものであることは、前にも述べました。ただし、そのときの曲名は【1分:ウン・ミヌート:Un Minuto】でした。その後彼はこの曲を《フリート・ロドリーゲス・トリオ(B) 》で再録したり、ライブでも好んで歌っていますが、タイトルはオリジナルの【ウン・ミヌート】です。当然ヒルは原作者フリート・ロドリーゲスに変更の意志を伝えたはずです。しかしフリートはそれを告げられても、兄貴分に反対はできなかったのでしょう。気にはなりますが今となっては確かめようもありません。ではなぜ《ロス・パンチョス》のリーダー、アルフレード・ヒルはわざわざ曲名を変えたのでしょうか?

‘ウン・モメーント’ も ‘ウン・ミヌート’ も意味合いは、どちらも「ちょっとの間」という意味です。日常の会話の中で、どちらも同じように「チョッと待ってネ!」というときに良く使われます。ただしフリートは ‘ウン・ミヌート’ をこの曲では「チョッと待ってネ!」や「ちょっとの間」ではなく、本来の「1分間」という意味に使っています。さらに、意味は同じでも「ウン・モメーント」と「ウン・ミヌート」ではイントネーションと耳触りが微妙に違います。《ロス・パンチョス》だけでなくフリート自身も、ほかの作曲家や演奏家と同じく、「ちょっとの間」を表す言葉として、私の知る限り例外なく「ウン・モメーント」を使っています。その理由として「ウン・モメーント」の方が「ウン・ミヌート」より詩的で耳触りが良い表現だからだと思います。では言葉選びには繊細なフリートが、なぜ最初から「ウン・モメーント」を使わずに敢えて「ウン・ミヌート」にしたのでしょうか? これも本人に直接訊ねたわけではないので、以下は憶測にすぎません。フリートは、「ウン・ミヌート」つまり「1分」という言葉を使うことによって、「ちょっとの間」という ‘はばのある’ 表現ではなく、「たったの1分間」という切迫した時間そのものを、直接的で具体的に表現したかったのはないでしょうか。言い換えれば、「ウン・モメーント」が情緒的表現なのに対し、「ウン・ミヌート」は写実的、即物的表現なのです。総じてフリートの歌詞の表現は叙事詩的です。この点、後段で紹介する彼の一連の「ヒーバロ歌謡」が、叙事詩デーシマの影響をどの程度受けていたのか、興味あるところです。ともあれ、ここにヒルとフリートの ‘ロマンティック・ボレーロ’ に対する感覚の ‘違い’ があったのではないでしょうか。ご参考までに、この歌の最後の歌詞は、フリートのオリジル版では ♪君と過ごしたあの素敵な1分間=ウン・ミヌートを想えば・・♪ で、《ロス・パンチョス》バージョンでは ♪あのつかの間=ウン・モメーントが永遠になることを想えば・・♪ と、なっています。

このヒルとフリートの感覚の ‘違い’ がフリートの心中で徐々に深まって行く中、あの巡業先のべネゼーラでの吐血、胃潰瘍の発作が起こりました。一般には、この事件が彼を《ロス・パンチョス》を退団させた最大の原因、ということになっているのはご承知のとおりです。しかし胃潰瘍による吐血は突然起こっても、それ以前に激しい胃痛は何回か訪れていたはずです。その間、彼が自らの将来について熟考する機会は度々あったと推測するほうが自然でしょう。すなわち、健康、家族、祖国、そして自身の音楽への想いについてです。

【つかの間:ウン・モメーント:Un Momento】「ボレーロ」(下線は訳者)

Si me dejas vivir en tu vida,

tan solo un momento me conformaré.

Me parece que no estoy pidiendo tanto

comparando con lo mucho que por ti lloré.

 

Un momento de tu vida solo quiero.

Un momento para hablarte de mi amor,

y contarte de mi amargo sufrimiento

cuando ansioso te esperaba el corazón.

Un momento bastará para adorarte

y después podrás dejarme perdido en la soledad.

Porque yo podré vivir sin tu cariño

recordando aquel momento

que será una eternidad.

つかの間でいいから

僕の命を君の自由にしてくれ

君に泣かされたことに比べて

僕の願いは軽いもんだ

 

僕の望みは君に愛の告白を

つかの間したいだけ

不安な気持ちの僕の辛さを

つかの間伝えたいだけ

つかの間の恋でもかまわない

僕を忘れてもかまわない

あのつかの間の愛が

永遠になることを想えば

君の愛が無くても生きられる

 

※ un momento:つかの間(でいいから)=un minuto:1分間(でもいいから)
que será una eternidad.=sublime junto a ti.

(Ⅲ)プエルト・リコ・トリオのファーストボイスとフリート・ロ ドリーゲス・レイエス(Primera voz de los tríos puertorriqueños y J.R.R.)

フリート・ロドリーゲス・レイエス

スぺイン語圏のラテンアメリカ諸国の中で歌謡コーラスグループを多く輩出した主な国として以下が挙げられます。

地図上で北から、メキシコ、キューバ、ドミ二カ、プエルト・リコ、コロンビア、エクアドル、ぺルー、ボリービア、パラグワイ、チリ、アルゼンチンです。それらのグループのファーストボイスは、それぞれ国によって独特の声色、歌い方、発声、発音を駆使して歌います。中でも声色の特徴では、パラグワイとプエルト・リコ、歌い方では、プエルト・リコとアルゼンチンが際立っていると思いますが、本項はプエルト・リコ・トリオのファーストボイスの話です。

『カリブのラテントリオ』で紹介されている多くのプエルト・リコ・トリオのファーストボイスをざっくり分類しますと、

(1)顕著なプエルト・リコ風の歌唱スタイルの歌手、

(2)声色はプエルト・リコ独特だが歌い方は比較的素直な歌手、

ということになります。

(1)のジャンルの歌手の節まわしは、いわゆる‘プエルト・リコ節’ と呼ばれるもので、個性的で強烈です。これを一度聴くと耳にこびりつき、しばらく忘れられないほどです。そのため多くの人々が、これがプエルト・リコ歌手の典型的な歌唱スタイルだと思うようになりました。広い意味でそれは間違いではないのですが、実際はそのように極端な歌手はそれほど多くありません。その代表は、チェイート・ゴンサーレス(Cheíto González)、ジョ二ー・アルビーノ、レイ・アローヨ(Rey Arroyo)、ラウール・バルセーイロ(Raúl Balseiro)パキティーン・ソト(Paquitín Soto)、ホセー・チェイート・クルース(José Cheíto Cruz)たちです。ですから、プエルト・リコ・トリオのファーストボイスのほとんどは(2)の ‘歌い方は比較的素直な歌手’ のカテゴリーに属します。

フリート・ロドリーゲスはどちらかと言えば上記(2)の歌手に入ります。声色はプエルト・リコそのものですが、彼には格調高い独特の歌唱スタイルという特異性があります。それはプエルト・リコだけでなく、他の国のラテン歌手の中でもユ二ークだと思います。それがどのようににユ二ークかは、本章後段 (Ⅴ)《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の誕生B独創性 で詳しくご紹介することにして、ここでは彼の独特の歌唱スタイルが《ロス・パンチョス》を退団後、満を持して発表したべストアルバム・シリーズで完成したことを強調しておきます。ついでですが、《ロス・パンチョス》のリーダー、アルフレード・ヒルが魅せられたのも、彼の鋭く透明感のある歌声とは別に、この格調高い歌唱スタイルだったのではないでしょうか。

A プエルト・リコの歴史とタイーノ(Puerto Rico y Taíno)

プエルト・リコの歴史には2回大きな波がありました。1回目は1492年、ご存知コロンブスが尖兵となったスぺイン軍の侵略、2回目は1898年のアメリカ合衆国による占領です。1回目の波によって、それまでカリブ海のほぼ全域を支配していた先住民のタイーノ人は絶滅しました。これについては、第1章(Ⅰ)のカリブの先住民族Aタイーノ族で概説しましたのでご一読ください。

そこに記したように、スぺイン軍がプエルト・リコに侵攻する以前の歴史については、かなりはっきりしてきたのですが、こと音楽となると、タイーノ人が日常どのような楽器で、どんな音楽(恐らく踊りの伴奏)を演奏していたのか、という資料は全く残っていません。侵略者たちが記録していなかったためです。ただスぺイン人などとの混血は当然ありました。ですからプエルト・リコの人々の多くは、自分たちの身体のどこかにタイーノの血が残っていて、タイーノ文化を受け継いでいると、素直に信じています。プエルト・リコ歌謡の中でもそれを自負した歌が結構あります。

ティプレ

ティプレ

さきほど「タイーノの音楽が全く残っていない」と述べましたが、現在ラテン音楽で常用されるリズム楽器の「マラーカス」と「ギロ」、正しくは「グイロ(Güiro)」はタイーノなどの先住民族が残した唯一の楽器、という説が有力です。ということで、現在のプエルト・リコ固有の音楽は、あくまでスぺインの侵略以降に生まれたものということになります。ちなみに、数あるラテンアメリカの楽器の中で、プエルト・リコの伝統的な楽器とされるようになったのは、「マラーカス」「グイロ」「ギター」以外に、アフリか系の「コンガ」や「ボンゴ」(正しくは「ボンゴー(Bongó)」)などに代表される打楽器の太鼓「ボンバ(Bomba)」類、そして撥弦楽器の「クワトロ」です。今のプエルト・リコのクワトロは独特の形状と音色を持っていますが、これは20世紀後半に完成されたもので、その前身は「ティプレ(Tiple)」や「ボルドヌーア(Bordonúa)」だと言われています。そもそもカリブの世界に於けるギターなどの撥弦楽器は、16世紀に入ってスぺインなどのヨーロッパの侵略者たちが持ち込んだものです。それらが当時どんな物だったのか、今となっては判然としません。プエルト・リコでは1512年に、スぺイン人がサン・ホワーンに持ち込んだ「ビウエーラ(Vihuela)」が最初の撥弦楽器であるという文献が残っています。ちなみに、その後1516年になってスぺインの貴金属商がサン・ホワーンに「スぺイン風ギター(Guitarra Española)」を携帯したのが、プエルト・リコに到着した最初のギターということになっています。

クワトロ

クワトロ

このように、カリブの世界での撥弦楽器の進化過程は複雑です。プエルト・リコに関しては、18世紀の終わり頃「ティプレ」「ボルドヌーア」といった楽器が使われていた記録は残っています。ではこれらがどのようにして今日の「クワトロ」になったのでしょうか? そもそも、 ‘クワトロ’ という名称もスぺイン語で数字の4を表します。つまり ‘4コース復弦8本’ という意味です。しかし実物は複弦5コース10本で、しかも現在のクワトロは一般的に複弦は1番2番3番弦だけで、残りの4番と5番弦は単弦です。さらに演奏者によっては各弦の位置を変えたりします。ですからすべて仮説の域を出ません。ただ、500年に亘るプエルト・リコの大衆音楽(ほかのラテンアメリカ諸国にもあてはまりますが)の発展過程で、唯一はっきりしていることがあります。それは、これらヨーロッパから渡来した楽器は、最初何世紀かは庶民のものではなく、一部の支配階級が楽しんでいたものに過ぎなかった、ということです。ご参考までに、前述の三つの撥弦楽器「クワトロ」「ティプレ」「ボルドヌーア」をプエルト・リコでは 「木像(Los Santos De Palo)」と呼ばれ、’神聖な楽器’ として扱われています。

20世紀初頭「ヒーバロ」の村

20世紀初頭「ヒーバロ」の村

さてヒーバロの話です。ヒーバロとは一口に言えば「プエルト・リコ島の山村地帯に棲む人々、主に農民」ということになります。山村といっても、平地からせいぜい標高1000メートル前後の山々にある集落で、我々日本人から見れば高原の村落といったところでしょうか。しかしこのヒーバロという言葉には 「極貧に近い人々」の意味が隠されています。彼らはスぺイン統治時代から始まった、ラテンアメリカ特有の「格差」社会の最大の被害者でもありました。この場合、格差という言葉を使って良いのかどうかさえためらわれます。つまり、それくらい貧富の差がひどいということです。プエルト・リコで 「ヒーバロ」の記述が最初に載ったのは、1820年日刊紙『調査探求(El Investigación)』だといわれています。そのときの ‘綴り’ は現在の「Jíbaro」ではなく「Gíbaro」で、当時のプエルト・リコの総人口は230,622人でした。

スぺインを筆頭にラテンアメリカを植民地化したヨーロッパの人々は、我先に広大な土地を私物化しました。やがてその人々も淘汰され、力のある少数の者だけがウルトラ大地主として残ったのです。このあたりの情景を、日本史における中世の荘園の成り立ちと比較されると理解しやすいかも知れません。ただしスケールは全く違います。広大な土地を支配した ‘一握り’ の豪族は農園を経営し、当然莫大な財産を築き上げました。その結果一握りの領主のような「地主一族」と「それに従属する人々」という構図が生まれたのです。この構造は基本的には現在でも未解決のままといっても良いでしょう。その実状も19世紀になってようやく世界的に知られるようになりました。

プエルト・リコは小さな島です。第1章カリブ(Ⅱ)カリブ諸国Bカリブ海の島国で述べたとおり、1898年カリブの支配権は、スペインからアメリカ合衆国に移りました。その結果として、プエルト・リコだけは合衆国に占領され、それ以降プエルト・リコは、好むと好まざるに関わらず資本主義経済圏に取り込まれるようになりました。現在は観光業などのサービス産業を初め、僅かな近代産業がこの島の経済を支えていますが、近年は経済破綻国家の仲間入りをしている状態です。基本的には、アメリカ合衆国の資本が支える精糖工場などに付随した農業が、長らく島の唯一の産業と呼べるものでした。前述の ‘一握りの支配階級’ が経営する農業です。肥沃な沿岸ではサトウキビ畑が、不毛な山岳地帯では主にコーヒー畑が展開していました。悲惨なのは、そこで働く人々が、農民というより「農奴」に近い生活を強いられたことです。彼らは、農園主から生活費の前借りで身動きがとれる状態ではなかったのです。大家族を抱える家長が受け取る1日の実質収入はゼロに近かった、という記述も残っています。このような農民は、総人口が約百万人といわれた19世紀末のプエルト・リコで、人口1000人以上の町以外に住む人々の約85%を占めていました。その中で、山岳地帯で暮らさざるを得なかった人々が ‘ヒーバロ’ というわけです。しかしこの言葉はプエルト・リコの農民の総称としてしばしば用いられます。

では、上記のように日常は裸足で暮らし、衣食にもこと欠くよう人々に音楽などを楽しむ余裕などあったのでしょうか? それが今日、「ヒーバロ歌謡」と呼ばれる立派なフォルクローレとして存続しているから驚きです。やはり、人は苦しい環境に置かれれば置かれるほど、音楽を必要とするということなのでしょうか。プエルト・リコのポピュラー音楽史をたどるとき、たしかに彼らは主役ではありません。主役は、サン・ホワーンや「ポンセ(Ponce)市」のような沿岸の町や山岳に豪邸を構え優雅な暮らしをしていた富裕層と、教会を中心にした「プエブロ(Pueblo)」と呼ばれる町の住民や軍人、そして政治家たちでした。既述のとおり、これらの階層の人々はクワトロ、ティプレ、ボルドヌーア、そしてギターといった撥弦楽器を1500年代の初めから楽しんでいました。特にティプレとボルドヌーアは上流階級の人々に、ギターとクワトロは庶民に親しまれたと伝えられています。

B ヒーバロ(Jíbaro)歌謡(Canción de Jíbaro)

プエルト・リコには ‘民族音楽’ ともいうべき「ヒーバロ歌謡」という独特のジャンルがあります。プエルト・リコではこのヒーバロ歌謡がこの国のあらゆる大衆音楽の底流になっていて、国民的歌手兼作曲家フリート・ロドリーゲスの音楽を語る上でその存在をスルーすることはできません。

では 「ヒーバロ歌謡」とはどんなものなのでしょうか? 一口でいえば、彼らの日常生活の中で唯一の娯楽であった ‘集団的な踊り’ の伴奏から生まれたものです。 集団的な踊りも、当初は勝手に踊ったり歌ったりしていたものが、やがてヨーロッパに起原を持つ、6人がまとまって踊る「セイス(Seis)」という形になり、それが主流になりました。それとともに、伴奏も身の回りの日用品を使いながら囃し立てる ‘お囃子’ から、やがて今日の ヒーバロ歌謡には欠かせないクワトロやギターといった ‘民族楽器’ に進化していきました。ただしこの場合の民族楽器が、あくまでも手作りの物であったことはいうまでもありません。

このようにヒーバロ歌謡は踊りの伴奏として生まれたものです。ですから曲の形式も自由奔放、多種多様で、「セイス○○」という独特なリズムとテンポの曲は無数にあります。なかでも特にポピュラーなのが、一般にそれぞれ「アギナールド(Aguinaldo)」「マぺイェー(Mapeyé)」と呼ばれる「セイス・アギナールド(Seis Aguinaldo)」「セイス・マぺイェー(Seis Mapeyé)」です。この二つのジャンルの曲のリズムは、我々にはほとんど同じに聴こえます。そのわけは、両方ともルーツがスぺインから渡来した「アバネーラ(Habanera)」にあるからです。このリズム「アバネーラ」つまり「ハバネラ」は良くご存知のとおり、フランスのジョルジュ・ビゼーの歌劇「カルメン」の第1幕で、主人公のカルメンがドン・ホセー伍長を誘惑する場面で歌われ、世界中に有名になりました。余談です。ラテン音楽の世界ではアバネーラのリズムは料理の世界における ‘隠し味’ 的存在で、多くのジャンルに影響を与えています。アルゼンチン・タンゴのリズムも、元はといえばアバネーラだそうですから驚きです。

ヒーバロ歌謡の楽器は、身の回りにある ‘お囃子’ 的楽器を使うことから始まり、見よう見まねで手作りしたクワトロやティプレらしき撥弦楽器に進化していったことは既に述べました。打楽器も手作りで、先住民が残したマラーカスとグイロ、それにアフリカ系の「太鼓類」を使います。歌の内容は、たあいのない日常的な出来事を並べたものがほとんどです。いささか下品で卑猥な表現も当たり前で、このことが長年ヒーバロが町の人々、特に上流階級から嫌われ、差別を受ける元にもなりました。

最後になりましたが、これらの音楽にはそのべースとして彼ら独特の「詩」があることを忘れるわけにはいきません。「デーシマ:10行詩」です。日本で言えば連歌、和歌、俳句の類だとご理解ください。この詩の形式は、スぺイン人がラテンアメリカを侵略したと同時にこの国にも伝わったといわれています。当然のことながら、始めは支配者階級の娯楽として広まりましたが、やがて一般庶民からヒーバロに伝播していきました。ただし、このデーシマが広まる過程で本来の10行詩の厳格な形式は崩れ、自由奔放な詩になっていきます。これがヒーバロ歌謡のルーツです。要するに、初めにセイスのような集団的踊りが発生し、それに音が付き、さらにデーシマが加わって出来上がったのが 「ヒーバロ歌謡」というわけです。

アントー二オ・カバーン・バレ

ついでですが、良く聞かれる「吟遊詩人:トロバドール(Trovador)」という言葉は、本来の ‘詩人’ の範疇を超えて、これらの詩を作り、自ら歌う人々の総称になりました。彼らはカリブを含めてラテンアメリカに広く存在します。プエルト・リコでは、エル・トポ(El Topo)の愛称を持つアントー二オ・カバーン・バレ(Antonio Cabán Vale)が代表的吟遊詩人として知られています。現在プエルト・リコには伝統的デーシマだけを書く人がいます。詩の内容は格調高く、愛国心を訴えるものがほとんどです。その一人ホワーン・カリオーン(Juan Carrión)は、吟遊詩人が詠む内容について次のように紹介しています。

「香り豊かなコーヒーの木、貴重な果実、この国の詩人たちによる、優しさ溢れる詩が聴こえてくるような、色彩に富んだ入江が、私たちにとって汲めども尽きぬ詩想の源です。平穏な島の風景は、私たちの詩情を掻き立てます。山並みが醸しだす雰囲気、遥か遠くの青い空、のどかな平原、静寂で清々しい夜、虹色の夜明け、これら全てが母国への想いを募らせるのです」。

ラミート

ラミート

いわゆるヒーバロ歌謡演奏家で、今なお庶民に人気のある歌手としてラミート(Ramito)やチュイート(Chuíto)が有名です。

チュイート

チュイート

ほかにもアンドゥレース・ヒメーネス(Andrés Jiménez )、エドウィン・コローン・サーヤス(Edwin Colón Zayas)、ルイス・ミランダ(Luis Miranda)、へルマーン・ロサーリオ(Germán Rosario)らが、クワトロを片手に多種多様なセイスを歌っています。『カリブのラテントリオ』でも記述されているとおり、フリート・ロドリーゲスも 「ヒーバロ歌謡」の作品を多数残してしていますが、後段で詳説します。

(Ⅳ)作曲家フリート・ロドリーゲスの作品と作風(Los éxitos del compositor J.R.R.)

A 「愛/恋の歌」と「愛国/ふるさと歌謡」(Canción romántica y a su patria Borinquen)

フリート・ロドリーゲス

フリート・ロドリーゲスの代表作【海と空】は、ラテンアメリカはもとより欧米でも大ヒットし、世界中で最も愛唱されているボレーロの一つに数えられています。前述のロサーウラ・べガ・サンターナ女史は著作『素描・フリート・ロドリーゲス・レイエスの足跡と音楽』の中で「【海と空】の人気の一つは、歌詞が世界中の人々に受け入れられやすい内容になっているからでしょう。さらに分析すれば、この歌は男性女性どちらにも当てはまるような歌詞になっていることです。つまり主人公を ‘僕(男性)’ から ‘わたし(女性)’ に、相手を ‘君’(女性)から ‘あなた(男性)’ に代えても詩の意味は同じなのです」 と述べています。

フリート・ロドリーゲス

フリートの音楽は、彼の恩師ラファエール・エルナーンデスの影響を強く受けていると私は考えています。それはエルナーンデスの幅広い楽曲中にある「愛国/ふるさと歌謡」のジャンルをフリートが忠実に受け継いでいることです。ここでいう「愛国/ふるさと歌謡」とは、広義な意味でのプエルト・リコ独自の音楽のことを指します。それはざっくりと、(1)プエルト・リコ(ボリーンケン)の情景や風土をとおして祖国を純粋に賛美した曲、(2)「アギナールド」「マペイェー」に代表されるヒーバロ歌謡、(3)アフリカ系の「プレーナ」「ボンバ」などのプエルト・リコ独自のリズムを持った 曲、の三つに分けられます。「愛国/ふるさと歌謡」の特徴は、♪レ、ロ、ライ(le,lo,lay)♪ と歌われるフレーズと ‘ボリーンケン’という言葉が常套的に使われることです。

この二人にとどまらず、プエルト・リコの有名な作曲家のほとんどは、このジャンルの曲を書いています。前述のとおり、ぺドロ・フローレス、ボビー・カポー、ノエール・エストラーダ、ロべルト・コーレらですが、ほかにもシルビア・レクサーチ(Sylvia Rexach)、エステーバン・タローンヒー(Esteban Taronjí)、ぺピート・ラコンバ(Pepito Lacomba)らが居ます。ただしラファエール・エルナーンデスは別格です。つまりフリートも含めて、彼らはマエストロ•エルナーンデスのような幅広い分野で活躍したオールラウンドの作曲家ではありません。エルナーンデスが巨匠と呼ばれる所以です。特にフリートは、師匠のようなダンサブルで華麗なオルケスタ曲は作っていませんし、同じロマンティックな歌謡でも、師匠のように多彩なテーマは扱っていません。例外的に【俺はヒーバロ:Jíbaro Castao】のような曲もいくつか書いていますが、ひたすら「愛/恋の歌」を追求しています。つまり、彼の音楽は徹頭徹尾トリオ音楽なのです。しかしフリートの「愛/恋の歌」は必ずしも「ボレーロ」だけとは限りません。キューバの「グワラーチャ(Guaracha)」「グワヒーラ(Guajira)」「ソン(Son)」、また「クリオーリョ(Criollo)」音楽と呼ばれる「ホローポ(Joropo)」「バルス(Vals)」などのリズムを借りた作品が数多くあります。

このラテンアメリカ独特の「愛/恋の歌」と、フリートのロマンティック歌謡について、上記ロサーウラ・べガ・サンターナ女史が述べている一節をご紹介します。

「プエルト・リコに限らず、ラテンアメリカのポピュラー歌謡の歌詞には共通したものがあります。それは、僅かな誇りを残しつつも自分を見失った人間が辿る、様々な生きざまを歌った曲が多い、ということです。さらにその主なテーマは、罪、裏切り、自殺、殺人、殉教、憎しみ、恨み、自虐、鬱などとなっています。それらは全て病的と言えるほどに取り憑かれた、理想的な愛への ‘こだわり’ と ‘探求’ から起こる現象です。フリートはそれを難解な言葉を使わず、短い歌詞の中で的確に伝えます。それを聴いた人々に対し、まさに目から鱗が落ちたような気分にさせるメッセージになっているのです」。

そこで彼のボレーロの歌詞です。それは難解な言葉こそ使っていませんが、ほとんどの歌詞の内容が哲学的で理屈っぽく、1回聴くだけでは分かりにくいのですが、またそれ故に奥深く考えさせられることです。つまり彼の歌詞は ‘訳者泣かせ’ なのです。この点《ロス・パンチョス》のヒルやナバーロの「愛/恋の歌」が分かりやすく、私たちの心にストレートに飛び込んでくるのとは対照的です。度々の引用ですが、サンターナ女史もこの点について次のように記しています。

「フリートの音楽の世界に入ることは、見知らぬ場所で暗闇に迷い込むようなものです。そうなった場合、足を窪みに取られたり転ばないように恐る恐る歩き、腕をしっかり伸ばして、頭を枝や壁にぶつけないようにしなければなりません。でも、そんなデコボコな険しい道を行くときでも、冒険心や好奇心に駆られ、この先どんなことが待っているのか、期待に胸が膨らみます」。また、「フリート・ロドリーゲスの歌を理解しようとするなら、我々は遥か地平線まで航海して空に昇ったり(注:【海と空】)、カレンダーをめくったり(【カレンダー:El Almanaque】)、枕に訴えたり(【君の枕:Tu Almohada】)、星占いをしたり(【星占い:El Horóscopo】)しなければなりません」。

訳者の語学力の問題ばかりでなく、プエルト・リコの専門家とっても彼の歌は難解なのが分かります。

エルナーンデス(左端)一家と団欒するフリート(左から二人目)

エルナーンデス(左端)一家と
団欒するフリート(左から二人目)

ところで、フリートとラファエール・エルナーンデスの師弟関係は、音楽とは直接関係ないところでも深く繋がっています。『カリブのラテントリオ』(164頁)の記述にもあるように、1952年フリートが《ロス・パンチョス》に入団できたのもエルナーンデスの推挙のおかげですが、実は1956年彼が《ロス・パンチョス》を退団する際にもエルナーンデスが関わっています。前掲のパブロ・オルティース著『トリオ・ロス・パンチョス歴史と年代記』の記述によれば、彼の退団の意向や、その後のやりとりの手紙は総てエルナーンデスが書いていたからです。フリート・ロドリーゲスは、その長い音楽活動の中で大きなターニング・ポイントとなったこの二つの出来事をとおして、恩師エルナーンデスには多大な恩義を感じていたはずです。二人の深い繋がりを示すものとして、興味ある1枚の写真が第3章べストアルバム・シリーズ(Ⅳ)第4集11.【明日は:Mañana】の解説の中で紹介する 「ラファエール・エルナーンデス記念博物館」に展示されていました。

B フリート作品のジャンル分けと初レコーディング年代(Clasificación y año de las canciones de J.R.R.)

1999年に、サン・ホワーンで私がマエストロ・ロドリーゲスに初めて会ったとき、彼に対する最初の質問は ❝マエストロは、今まで何曲位作曲しましたか?❞ でした。彼は暫く考た後、 ❝約100曲かな❞ と答えてくれました。これは私にとってやや意外でした。正直なところ精々20〜30曲位と思っていたからです。実際《ロス・パンチョス》のヒルとナバーロ以外、ラテンアメリカ広しといえども100曲またはそれ以上、それも演奏家を兼ねた作曲家はそんなに多くないからです。ちなみにラファエール・エルナーンデスは約2000曲、アグスティーン・ララは約400曲、ぺドロ・フローレスはせいぜい500曲位だろうといわれています。

私が帰国後、早速調べた結果、全部で91曲を確認、うち87曲の音源を収録できました。収録できなかった4曲のうち3曲は《ロス・ロマンセーロ》時代の【ジプシー娘の裏切り:La Gitana Mintió】と【悲しい新年:Triste Año Nuevo】、【素敵な少女:¡Que Sirvienta!】です。4曲目の【プエルト・リコの娘:Puertorriqueña】については少し解説が必要です。『カリブのラテントリオ』229頁の本文と脚注(*33)の記述にあるように、1958年フリートは、ビエーホ・サン・ホワーン(Viejo San Juan)でレストラン「エル・バテーイ(El Batey)」を経営しています。そのため、結成間もない《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の活動は一時中断することになりましたが、その間フリートは、ミゲール・アルカイデ(Miguel Alcaide)/チャゴ・アルバラード(Chago Alvarado)らとトリオを組み、『RCA』でレコーディングをしています。自作【プエルト・リコの娘】はその中の1曲に入っていました。そういうわけで、100曲には9曲足りませんが、マエストロの言葉に間違いはありませんでした。確認できた91曲のほとんどは、あくまで正規にレコーディングされ発売されたものです。確認できた曲は他にも、レコーディングはされなかったものの、テレビ番組でライブ演奏されたものが含まれています。この ‘レコーディングされなかった曲’ は、主にデビュー前か晩年に作曲されたもののようですが、その数はわずか9曲などということはないでしょう。そう考えると100曲は優に超えていると思います。

確認できた91曲と、収録できた87曲のジャンル分けと初レコーディング年代は以下のとおりです。

ジャンル(*a)=「愛/恋の歌」(Canción Romántica)

ジャンル(*b)=「愛国/ふるさと歌謡」(Canción A Su Patria Borinquen)

a ジャンル分け(Clasificación)

<A>:
Aires De Navidad(*b)
A La Hora De Acostarte(*a)
Año Nuevo Sin Ti(*b)
Apúntalo(*a)

<B>:
Besando A Puerto Rico(*b)
Bomboncito(*a)
Brindis (*a)

<C>:
Cadena De Lágrimas(*a)
Calabaza Y Limón(*a)
Cariñito(*a)
Cenizas(*a)
Ciegamente(*a)
Con Quién Habrá Que Hablar(*a)
Credo De Amor(*a)
Cuando Florezca El Tamarindo(*b)

<D>:
Dame Otra Oportunidad(*a)
De Fiesta(*b)
Delincuente(*a)
Diploma(*a)

<E>:
El Almanaque (*a)
El Chorro(*b)
El Espejo(*a)
El Guaraguao(*b)
El Horóscopo(*a)
El Pecoso(*b)(彼の作品の中で唯一コミカルな曲。歌詞はプエルト・リコと合衆国の関係を痛烈に皮肉っています)。
El Quinqué(*b)
Eres Maravillosa(*a)
Espejismo(*a)

<F>:
Fugitivos(*a)

<G>:
Gotitas De Dolor(*a)

<H>:
Hay Que Aprender(*a)
Hoguera De Amor(*a)

< I >:
Idilio De Una Noche(*a)
Indiscutiblemente(*a)
Inolvidable Amor(*a)
Invitación(*a)

<J>:
Jíbaro Castao(*b)
Juego De Amor(*a)

<L>:
*La Gitana Mintió(《ロス・ロマンセーロス》時代のレコーディング曲。未収録、内容不明)。

La Lotería(*a)
La Muchacha Que Yo Quiero(*b)
La Muñequita(*a)
La Recompensa(*a)
La Verdad(*a)
Lo Primordial(*a)

<M>:
Magic Nights(*b)
Mar Y Cielo(*a)
Mensaje(*a)
Mentimos(*a)
Mi Cañaveral(*b)
Mi Compañera(*a)
Mi Testamento(*b)
Moliendo Caña(*a)

<N>:
Navidades En Puerto Rico(*b)
Novia Mía(*a)
No Hay Problema(*a)
No Te Cases Todavía(*a)

<O>:
Otra Historia De Amor(*a)

<P>:
Paisaje De Madrugada(*b)
Panamá Querido(*a)
Pensamientos De Navidad(*b)
Perseguido(*a)
Por Cumplimiento(*a)
Por Qué Será(*a)
Postal De Navidad(*b)
Primavera De Ayer(*a)
Puedes Casarte(*a)
*Puertorriqueña(1958年にフリートがアルカイデ/アルバ ラードらと一時的にトリオを組みレコーディングした曲。未収録、内容不明)。

<Q>:
*¡Que Sirvienta!(《ロス・ロマンセーロス》時代のレコーディング。未収録、内容不明)。

<R>:
Raíces(*a)
Reflexionando(*a)

<S>:
San Juan Nocturno(*b)
Se Acabó El Café(*b)
Sensualidad(*a)
Serenata En Le Lo lay(*b)
Siete Besos(*a)
Soy Jíbaro(*b)

<T>:
Tan Sencillo(*a)
Tantas Noches(*a)
Tratar De Vivir(*a)
Tres Estrellas(*a)
*Triste Año Nuevo(《ロス・ロマンセーロス》時代のレコーディング。未収録、内容不明)。
Tu Almohada(*a)
Tu Primer Beso(*a)
Tu Risa(*a)

<U>:
Una Linda Navidad(*b)
Un Minuto = Un Momento(*a)
Un Rincón Para Llorar(*a)

<V>:
Van Pasando Los Años (Siempre Hay Un Tiempo)(*a)
Vive Tu Vida(*a)

<Y>:
Yo No Tenía La Luz(*a)

 

上記の(*a)と(*b)を比べてみると、収録できた87曲のうち、

(*a)=「愛/恋の歌」は64曲で74%、

(*b)=「愛国/ふるさと歌謡」は23曲で26%

になります。これをみると、フリート・ロドリーゲスの作品の中で、(*b)「愛国/ふるさと歌謡」の占める割合が意外に高いことが分かります。

次に、上記87曲を発表年代(初レコーディング年代)別に分け、(*a)と(*b)の割合を比べてみました。

b 初レコーディング年代(Crónica)

1946 ~ 1950 :《トリオ・ロス・ロマンセーロス》《Trío Los Romanceros》
(フリート/フェリーぺ・ロドリーゲス/ソテーロ・コリャーソ Sotero Collazo)(フリート/アダルべールト・デ・コールドバ Adalberto De Córdova/ソテーロ・コリャーソ)

トリオ・ロス・ロマンセーロス

トリオ・ロス・ロマンセーロス
(フェリーペ/ソテーロ/フリート)

Aires De Navidad(*b)
Bomboncito(*a)
Con Quién Habrá Que Hablar(*a)
El Chorro(*b)
La Gitana Mintió(未収録・不明)
Mentimos(*a)
Moliendo Caña(*a)
Novia Mía(*a)
Perseguido(*a)
Por Qué Será(*a)
¡ Que Sirvienta ! (未収録・不明)
Se Acabó El Café(*b)
Siete Besos(*a)
Soy Jibarito(*b)
Triste Año Nuevo (=Año Nuevo Sin Ti ?)(未収録・不明)
Un Minuto=Un Momento(*a)

(*a):(*b)=69%:31%

1951 ~ 1956 :《トリオ・ロス・パンチョス》《Trío Los Panchos》
(フリート/ナバーロ/ヒル)

トリオ・ロス・パンチョス

トリオ・ロス・パンチョス
(フリート/ナバーロ/ヒル)

Brindis(*a)
Cuando Florezca El Tamarindo(*b)
De Fiesta(*b)
Delinquente(*a)
Mar Y Cielo(*a)
Mi Cañaveral(*b)
Otra Historia De Amor(*a)
Panamá Querido(*a)
Tan Sencillo(*a)

(*a):(*b)=67%:33%

1958 : 《フリート・ロドリーゲス・トリオ(G)》《Julito Rodríguez Trío(G)》
(フリート/ミゲール・アルカイデ/チャゴ・アルバラード)

Puertorriqueña(未収録・不明)

1957 ~ 1962 :《フリート・ロドリーゲス・トリオ (A)》《Julito Rodríguez Trío(A)》
(フリート/タティーン・バレ(Tatín Vale)/ラファエール・シャローン  Rafael Scharrón)

フリート・ロドリーゲス・トリオ

フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)
(バレ/フリート/シャローン)

A La Hora De Acostarte(*a)
Cariñito(*a)
Ciegamente(*a)
Credo De Amor (*a)
El Almanaque(*a)
Gotitas De Dolor(*a)
Idilio De Una Noche(*a)
Inolvidable Amor(*a)
Invitación(*a)
La Muchacha Que Yo Quiero(*b)
Mensaje(*a)
Navidad En Puerto Rico (Mex. Victor)(*b)
Tu Almohada(*a)
Tu Primer Beso(*a)

(*a):(*b)=86%:14%

1962 ~ 1974 :《フリート・ロドリーゲス・トリオ (B)》《Julito Rodríguez Trío(B)》
(フリート/フ二オール・ナサーリオ/ラファエール・シャローン)

フリート・ロドリーゲス・トリオ(B).

フリート・ロドリーゲス・トリオ(B)
(フリート/ナサーリオ/シャローン)

Año Nuevo Sin Ti(*b)
Besando A Puerto Rico(*b)
Cadena De Lágrimas(*a)
Calabaza Y Limón(*a)
Cenizas(*a)
Dame Otra Oportunidad(*a)
Diploma(*a)
El Guaraguao(*b)
Hay Que Aprender(*a)
Hoguera De Amor(*a)
La Recompensa(*a)
La Verdad(*a)
Magic Nights(*b)
Mi Testamento(*b)
No Hay Problema(*a)
No Te Cases Todavía(*a)
Pensamiento De Navidad(*b)
Puedes Casarte(*a)
Raíces(*a)
Serenata En Le Lo Lay(*b)
Tres Estrellas(*a)
Vive Tu Vida(*a)

(*a):(*b)=68%:32%

1975 ~ 1983 :《ロス・トレス・グランデス》《Los Tres Grandes》
(フリート /タト・ディーアス Tato Días/ミゲール・アルカイデ)

ロス・トレス・グランデス

ロス・トレス・グランデス
(ディーアス/フリート/アルカイデ)

El Espejo(*a)
El Pecoso(*b)
El Quinqué(*b)
Eres Maravillosa(*a)
Jíbaro Castao(*b)
La Lotería(*a)
La Muñequita(*a)
No Te Cases Todavía(*a)
Por Cumplimiento(*a)
Postal De Navidad(*b)
Reflexionando(*a)
Tratar De Vivir(*a)
Una Linda Navidad(*b)
Un Rincón Para Llorar(*a)
Van Pasando Los Años(*a)

(*a):(*b)=67%:33%

1983 ~ 1986? :《フリート・ロドリーゲス・トリオ (C)》《Julito Rodríguez Trío(C)》
(フリート/タティーン・バレ/リカールド・フェリウー(Ricardo Feliú)

フリート・ロドリーゲス・トリオ(C).

フリート・ロドリーゲス・トリオ(C)
(フリート/バレ/フェリウー)

Fugitivos(*a)
Lo Primordial(*a)
San Juan Nocturno(*b)

(*a):(*b)=67%:33%

1986 ~ 1995 :《フリート・ロドリーゲス・トリオ(D)(E)(F)(H)(I)》《Julito Rodríguez Trío(D)(E)(F)(H)(I)》
(D)(フリート/ジミー・ビセンティー  Jimmy Vicentí/ウイリアム “グリーン” ロドリーゲス William “Gullín” Rodríguez)
(E)(フリート/ホセー “チェリ” トーレス  José “Cheli”Torres/ウイリアム “グリーン” ロドリーゲス)
(F)(フリート/ジミー・ビセンティー/バルタサール・フスティ二アーノ  Baltazar Justiniano)
(H) (フリート/オシーリス・ シウラーノ  Osiris Siurano/ウイリアム “グリーン” ロドリーゲス)
(I) (フリート/ジョン・ゴンサーレス  John Gonzáles/ロケ “エル・グエリート” ロサーダ Roque “El Güerito” Lozada)

フリート・ロドリーゲス・トリオ(E).

フリート・ロドリーゲス・トリオ(E)
(フリート/“ウイリアム” ロドリーゲス/“チェリー” トーレス)

Apúntalo(*a)
El Horóscopo(*a)
Espejismo(*a)
Indiscutiblemente(*a)
Juego De Amor(*a)
Mi Compañera(*a)
Paisaje De Madrugada(*b)
Primavera De Ayer(*a)
Sensualidad(*a)
Tantas Noches(*a)
Tu Risa(*a)
Yo No Tenía La Luz(*a)

(*a):(*b)=92%:8%

上記の分類全87曲のうち、(*b) 「愛国/ふるさと歌謡」が占める割合は平均26%になります。しかし、後述する第3章べストアルバム・シリーズが生まれた年代1957年〜1962年と、1986年以降、音楽活動50周年公演の前年1995年(晩年の 61歳〜70歳)の間に限り、(*b)は平均26%を大きく下回っています。それは何故でしょうか?

(*a)については、次のべストアルバム・シリーズの項でくわしく検証するとして、問題は(*b)です。彼は60歳を過ぎて、無意識のうちにシンプルな曲想を好むようになったのかもしれません。つまり「愛/恋」に対する感受性と共に、「愛国/ふるさと」の想いも ‘枯れた’ ものになったのでしょう。これは私の独断です。皆様方は上記の 【Apúntalo】から 【Yo No Tenía La Luz】の12曲を聴いて、どう判断されるでしょうか?

(Ⅴ)《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の誕生(Integración del 《Julito Rodríguez Y Su Trío》)

フリート・ロドリーゲス・トリオ

病を得て《ロス・パンチョス》を退いたフリートは、1956年末サン・ホワーンの「退役軍人病院」を退院すると、闘病中に構想を練りながら心に描いていたトリオを結成します。正確な結成日は「アンソー二ア社」の記録によれば1957年3月22日となっています。そのグループ名を当初《トリオ・ロス・プリーモス》と名付けますが、間も無く《フリート・ロドリーゲスと彼のトリオ(Julito Rodríguez Y Su Trío)》、あるいは《フリート・ロドリーゲスのトリオ(Trío De Julito Rodríguez)》に改称しました(本稿では混乱を避けるため《フリート・ロドリーゲス・トリオ(Julito Rodríguez Trío)(A)》に統一)。

結成の発端は『カリブのラテントリオ』(225頁)に記されています。彼が選んだメンバーは、レキントがラファエール・シャローン(「アンソー二ア・レコーズ社」のアルバムではラファエール・チャローン(Rafael Charón)と表記)、セカンドボイスがタティーン・バレの二人でした。彼らが歩んだそれまでの音楽歴は、シャローンについては『カリブのラテントリオ』の188頁〜193頁、203頁、274頁、バレは226頁にそれぞれ詳述されています。二人とも当時31歳になっていたフリートに比べれば、はるかに若い25歳と22歳の若者でした。これは、フリートが《ロス・パンチョス》に入団したときのほかの二人のメキシコ人との年齢差ほどではありませんが、先輩後輩の絶対的関係を維持するするには十分だったでしょう。1957年に結成されたこのトリオの最初のレコーディングはプエルト・リコで行われましたが、レーべルはメキシコ『RCA』でした。しかし結果は成功とは程遠く、成果はありませんでした。『カリブのラテントリオ』でオルティース氏は、「しかし、いまだにその理由はさだかではないが、『RCA』はこの卓越したトリオの売り出しに熱心ではなかった」と述べています。

私はこの《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の記念すべき「メキシコRCAビクター社」のデビュー曲を、近年数曲聴くことができました。感想から先に申せば、落胆の一言に尽きます。後述のように、彼らが2年後『アンソー二ア』で録音発売した同じ曲とは到底思えない別物で、平凡な出来です。確かにフリートの熱のこもった歌唱とシャローンの新鮮なレキントは、そのつもりで聴けば伝わっては来ます。ただ全体的にプエルト・リコの薫りが感じられません。今となっては「メキシコRCAビクター社」が何を意図したか分かりませんが、彼らが ‘売り出しに熱心でなかった’ 理由は分かるような気がします。

その後トリオはプエルト・リコ中を巡業したり、サン・ホワーンのホテル「カリーべ・ヒルトン(Caribe Hilton)」でライブ演奏を行ったりしていました。そうこうするうちに、第2章フリート・ロドリーゲス・レイエスのトリオ音楽(Ⅳ)作曲家フリート・ロドリーゲスの作品と作風 Bフリート作品のジャンル分けと初レコーディング年代で紹介したとおり、フリートがレストランを経営することになり、活動を休むことになります。

エル・バテーイ

余談ですが、私は15年前初めてマエストロ・ロドリーゲスにお会いした折、彼の運転する愛車でサン・ホワーン市内をドライブしました。その途中ビエーホ・サン・ホワーンのとある小径に通りかかると、彼は突然車を止め、 ❝ここが以前俺が経営していたレストラン「エル・バテーイ」があった場所だ❞ と教えてくれました(店は洋品店に変わっていましたが)。

その間フリートはもとより、シャローン、バレも活動を止めていたわけではなく、短期間ですが3人共それぞれ別のグループで演奏しています。また余談になりますが、あるときマエストロ・ロドリーゲスに、❝ラテントリオのメンバーが頻繁に入れ替わるのはなぜですか?❞ と尋ねたことがありました。彼から返って来たのは、❝夫婦が離婚したり再婚したりするのと同じだね❞ と、分かったような分からないような言葉でした。因みに名のあるトリオの中で長年活躍し、解散するまでメンバーが変わらなかったのは、私の知る限りメキシコの《ロス・トレス・ディアマンテス(Los Tres Diamantes)》だけではないでしょうか?

脱線はこれくらいにして話を元に戻しましょう。1959年、レストランの経営から足を洗ったフリートがトリオに復帰します。そして、「ラテントリオ・アルバムの最高峰」が誕生します。すなわち、『アンソー二ア』レーべルでレコーディングした5枚60曲第3章べストアルバム・シリーズ (5枚組)です。この内の初めの十数曲は、当初45回転のEP盤、いわゆるドーナッツ盤と78回転のSP盤で発売されました。同時にカセットテープでの販売も当時の常套手段として行われています。しかし、最終的にアルバム・シリーズとして5枚のLPに収められ、いずれも大ヒットしたのです。この60曲は1959年の夏から1962年にかけて収録されました。正味3年をかけて60曲ですから、年平均20曲、月平均約1.7曲をレコーディングしたことになります。この数字は、メキシコ「コロンビア・レコード社」の営業方針にもよりますが、フリート・ロドリーゲスが《ロス・パンチョス》として年平均約30曲、月平均約3曲の収録と比べて極めて少ないことが分かります。つまりフリートが、かなりの時間をかけて入念にレコーディングしたことが窺われます。

A 二つのミラクル(Dos milagros)

a タイミング(Integrantes ideales del Trío)

二つのミラクル

この素晴らしいアルバム・シリーズが出来上がった要因として、「二つのミラクル」とも呼ぶべき偶然が重なったためだと、私は考えています。

一つ目はレコーディンが行われたタイミングです。誰でも一生のうちで自己の能力、技能、感性が最高の域に達した、いわゆる ‘油の乗りきった時期’ というものがあるはずです。特に芸術家には、この傾向が顕著に表れると思っています。トリオの3人にとって、1959年から1962年にかけてのこの時期は、まさにそのタイミングだったのです。とりわけ、フリート・ロドリーゲスがそうでした。既述のとおり、22歳の時に《トリオ・ロス・ロマンセーロス》でトリオ音楽の道に足を踏み入れ、《トリオ・ロス・パンチョス》で5年間心技を磨いた後、34歳になった彼が、長年探し求めていた自分の音楽にようやく辿り着き、実現しようとしていた、まさににそのときだったからです。

ほかの二人も年齢こそ20代前半の若者でしたが、トリオの経験は既に十分でした。まずラファエール・シャローンです。音楽一家に生まれた彼は、幼くしてクワトロを弾きこなし、16歳でレキント奏者としてデビュー、18歳のときに、《トリオ・ロス・ロマンセーロス》を辞めたフェリーぺ・ロドリーゲスが結成した《トリオ・ロス・アンターレス(Trío Los Antares)》にスカウトされています。この《トリオ・ロス・アンターレス》時代には、トリオの世界にはよくあることですが、ほかのグループ《トリオ・べガバへー二ョ(Trío Vegabajeño)》でも2回レコーディングをしています。その間兵役のため中断はありましたが、《トリオ・ロス・アンターレス》には1955年まで在籍しました。その後1956年前半、チェイート・ゴンサーレスの《トリオ・カシーノ・デ・サントゥールセ(Trío Casino De Santurce)》で、ぺドリート・べリーオス(Pedrito Berríos)とタブルレキント奏者としてレコーディングしています。このように、ラファエール・シャローンは1957年にフリートにスカウトされるまでに、フェリーぺ・ロドリーゲス、《トリオ・ベガバヘーニョ》のフェルナンディート・アルバレス(Fernandito Alvarez)、チェイート・ゴンサーレスらプエルト・リコを代表する歌手と共演しています。これはプエルト・リコでは珍しいことで、彼のその後の音楽生活に多大な影響を与えたことは想像に難くありません。彼の奏法ですが、クワトロ演奏で培ったそれをべースに、数多いプエルト・リコのレキント奏者の中でも独特なものを感じます。ピックを多用し、左の人差指をカポタスト代わり使っているからでしょうか。加えて彼のレキントに対する情熱です。『カリブのラテントリオ』(229頁)でも紹介されているとおり10弦のレキントを考案したり、1982年50歳のときに初めて自分で結成したトリオ《ボセス・デ・プエルト・リコ(Voces De Puerto Rico)》(『カリブのラテントリオ』366頁〜368頁)では、弦の配列と調弦を全く変えることで斬新な音色と聴感を創り出しました。彼はその楽器を「究極レキント」名付けています。ご興味のある方は彼らの最初のアルバム『我がアメリカ幻想曲(Rapsodia De Nuestra América)』(『DISCO HIT』DHCD-9184)をお聴きください。このアルバムは彼の野心作ともいえるもので、チェイート・クルース/フ二オール・ナサーリオら3人によるトリプルレキント、さらにシンセサイザーを採り入れた斬新なハーモ二ーは聴きごたえ十分です。中でもプエルト・リコの有名な詩人の作品に彼がメロディーをつけた、いくつかの曲は圧巻です。そこにはシャローンが目指していた新しい音の世界があります。そこからは、彼の作曲家としての才能を云々するよりも、彼の脅威的なテク二ックと創造に対する情熱が伝わって来ます。

私は10年ほど前にサン・ホワーンで、彼の生のレキントをライブ演奏会で聴くことができました。その時彼は70歳をはるかに超えていたはずですが、演奏は高齢を感じさせないテク二ックと、一方で年輪を重ねた味わいのある素晴らしいものでした。そのときの大感激と興奮、そして演奏後、彼が万雷の拍手の中で一人直立していた印象的なシーンは今でも忘れられません。コンサート後、彼から直接聞いた話を私なりに解釈すれば、彼は前述の『我がアメリカ幻想曲』で、「それまでのトリオ音楽すなわちロマンティック・ボレーロ、という束縛から抜け出そうとした」ようです。

我がアメリカ幻想曲

『我がアメリカ幻想曲』
(ボセス・デ・プエルト・リコ)

このアルバムはプエルト・リコのポピュラー音楽界で大反響を呼び、続いて第2弾が同じ『DISCO HIT』から発売されることになります。これにも前作同様、シャローンの「創造心」が強く出ていますが、興味深いのは、作曲家でもあった彼の母親マリーア・アリセーア・シャローン(María Alicea de Scharrón)の作品が1曲収められていることです。その間、《ボセス・デ・プエルト・リコ》は新感覚のトリオとして人気を不動のものとして行きました。トリオはまた、プエルト・リコの伝統的な歌謡を中心にしたアルバムを、メキシコ『オルフェオーン』で数枚、少なくとも4枚はレコーディングしています(『25-CDT-349』『25-CDT350』『25-CDT354』『25-CDT355』)。収められている曲目は、プエルト・リコのトリオなら必ず1度は採り上げるものばかりです。その演奏スタイルにも、やはりシャローンの主張が色濃く出ています。

そして3人目のタティーン・バレです。前述のとおり彼は3人の中で最も若く、結成当時はまだ22歳の青年でした。しかし彼もシャローンと同様、フリートにリクルートされたときには、名レキント奏者ヨモ・トロ(Yomo Toro)と共演するなど、既に一流ミュージシャンの仲間入りをしていました。彼は演奏ばかりでなく、作曲家としても非凡な才能を発揮しています。5枚のべストアルバムシリーズの第2集には彼の作品が2曲、【瞳に輝く一つ星: Una Estrella En Tus Ojos】と【君の思い出と共に:Prendido En Tu Recuerdo】、同じく第3集には【僕の口づけでおやすみ:Sueña Con Mis Besos】が収められています。

一般に、トリオのセカンドボイスは、個性的で我が強いファーストボイスと、職人肌で気難しいレキント奏者の間に挟まれ、忍耐強い緩衝材的役割が要求されます。《ロス・パンチョス》のセカンドボイス/ギターとして、ラテントリオ界に君臨したあのチューチョ・ナバーロがその代表格でしょう。残念ながらタティーン・バレはその範疇に入りません。それどころか、かなり我儘な性格で短気だったようです。それを表す例が『カリブのラテントリオ』(231頁)に記述されています。1962年のある日の午後、当時トリオのホームグラウンド、ホテル「カリーべ・ヒルトン」の「プールサイドテラス」で演奏中、突然バレは怒り出すやギターを放り出し、勝手にその場から立ち去ると、そのまま戻らなかった、という事件です。本書では、「3人が大口論をした」と書かれていますが、どうやら口論というよりはタティーンが勝手に ‘ブチ切れ’、残されたフリートとシャローンの二人は呆気にとられたまま、彼の後ろ姿を見ているしかなかった、というのが真相のようです。彼はその頃からアルコール依存症気味で、昼間から酒浸りの日が多かったという話もあります。それでも私が、彼をあらゆるプエルト・リコ・トリオの中で「No.1のセカンド」に挙げる理由は、彼の持って生まれた声色/声質です。具体的にいえば、それは《ロス・パンチョス》のチューチョ・ナバーロの系統に属します。そこから生まれるフリート/バレ/シャローンの3人が醸し出すハーモ二ーは絶妙で、プエルト・リコのトリオの中では異色といって良いでしょう。

ここで、プエルト・リコのトリオのセカンドボイスの特徴を挙げれば、その声色/声質があります。フ二オール・ナサーリオやタト・ディーアスなど著名なトリオで活躍したセカンドボイスはそろって中高音で、ファーストでも通用するような声の持ち主です。たとえば、初期から全盛期の《トリオ・べガバへー二ョ》を聴いてみても、当時のセカンドボイスのぺピート・マドゥーロ(Pepitp Maduro)の声が甘い中高音で、ハーモ二ーも典型的なプエルト・リコのトリオのそれになっていることがわかります。これらを裏付ける話として『カリブのラテントリオ』(271頁)に、あのプエルト・リコを代表するファーストボイスであるチェイート・ゴンサーレスの逸話が載っています。

チェイート・ゴンサーレス

チェイート・ゴンサーレス

要約しますと、1952年当時《トリオ・ロス・ムルシアーノス(Trío Los Murcianos)》のファーストボイスとして人気を博していたチェイート・ゴンサーレスは、じつはそれまで属していた《トリオ・サントゥールセ》ではセカンドとして歌っていたという話です。逆にファーストボイスらしからぬ声色/声質を持ったファーストの例もあります。《ロス・パンチョス》2代目のファーストで、ボリービア人のラウール・ショー・モレーノを思い出してください。彼は自分の《ロス・ぺレグリーノス(Los Peregrinos)》では押しも押されぬファーストボイスでした。にもかかわらず、『カリブのラテントリオ』(164頁)の脚注*26の記述にあるとおり、彼の《ロス・パンチョス》時代には、彼のファーストらしからぬ太く低い声を聴いた多くの人が、「トップを歌っているのはチューチョ・ナバーロで、ヒルとの二重唱ではないか?」と思ったということです。つまりコーラスのバランスの悪さを指摘されたわけで、モレーノの《ロス・パンチョス》時代が短かかったのもそれが大きな要因だった、といわれています。

チェイート・ゴンサーレス

チェイート・ゴンサーレスと彼の
トリオ・デ・カシーノ・サントゥールセ

そもそも、メキシコ、キューバ、プエルト・リコのトリオやコンフントのボーカルの声質と声色/ハーモ二ー/サウンドにはそれぞれ特色があります。サルサのいわゆる「コロ(Coro)」のパートでも、キューバ、コロンビア、プエルト・リコではボーカルの声質と声色/ハーモ二ー/サウンドが違います。その違いは、コロンブス以降に侵入してきたヨーロッパ人とアフリカ系の人々との混血具合によって生じた、という説も頷けます。ただ、ラテンアメリカの中でメキシコだけはやや事情が異なるようです。ほかのカリブ海沿岸諸国に比べアフリカ系文化の影響が少なく、広大な国土の中に無数に点在した先住民たちが侵略者と混血し、侵略者が持ち込んだ多様な楽器と音楽によって、地域独特の音楽・民謡が発展しました。その中から生まれた多彩なコーラスが、やがてメキシコのトリオを生んだのでしょう。ですからメキシコでは、コロンビア、キューバ、プエルト・リコに比べトリオの誕生は早く、歴史も古いと思われます。つまりメキシコでは、1925年頃に結成されたキューバの《トリオ・マタモーロス》やラファエール・エルナーンデスの《トリオ・ボリンケーン》よりも遥か昔から、トリオが存在していたらしいのです。従ってメキシコでは、トリオ音楽の基本であるコーラスに関しても、ファースト、セカンド、サードの役割やハーモ二ーの技術、感性が時と共に進化していき、最終的に黄金時代の《トリオ・ロス・パンチョス》に辿り着いた、と私は考えています。フリート・ロドリーゲスが《ロス・パンチョス》時代に、セカンドボイスとして理想的な声質と声色を持ったチーチョ・ナバーロと共演したときの経験と感性から、タティーン・バレを選んだとすれば、夢のある話です。しかし、彼がバレに白羽の矢を立てたことも、5枚の傑作アルバムを産んだ要因の一つであることに間違いはないでしょう。最後に、彼ら3人にはミラクルというよりも偶然ともいうべき共通点があります。それは学歴です。時期と在籍年数はまちまちですが、3人ともサンホワーンにある「プエルト・リコ大学」の「社会学部」で、プエルト・リコの文化、特に言語について学んでいます。ここで学んだ知識が、その後の彼らの長い音楽活動を通じて、具体的にどのような役割を果たしたかは知りません。ただ、メロディーではなく作詞に関しては、少なからず影響があったであろうことは想像できます。

b レコーディング、「アンソーニア」との出会い(Mezcla magnífica por Rafael “Ralph” Pérez Dávila、El productor de「Ansonia Records」)

ラファエール・ペレス・ダビラ氏

ラファエール・ペレス・ダビラ氏

二つ目のミラクルは、「アンソー二ア・レコーズ社」の創業者オーナーで生粋のプエルト・リコ人、ラファエール “ラルフ” ぺレス・ダビラ(Rafael “Ralph” Pérez Dávila)氏の存在です。彼のトリオにかける情熱と、プロデューサーとしての卓越した才能とセンスがなければ、この一連のアルバムは誕生しなかった、といっても過言ではありません。そればかりではありません。彼はレコーディング技術にも長け、自ら「ミキシング」などを指導していました。

では、ラファエール・ぺレス氏がどのような信念のもとに、彼の優れたレコーディングとミキシング技術を駆使して5枚のアルバムを製作し、それがどのような素晴らしい結果を生んだかを考えてみます。

その前に、そもそもラテントリオの演奏とはどんなものなのでしようか。拙訳書『プエルト・リコ!カリブのラテントリオ』の原書のタイトルは、『3人の声と三つのギターに寄せて:A TRES VOCES Y GUITARRAS、副題プエルト・リコのトリオたち:Los tríos en Puerto Rico』です。つまり、ここで言うトリオとは、 ‘3人の声と三つのギター’ による演奏、ということです。ただし、ラテントリオを全く知らない人が、この ‘3人の声と三つのギター’ による演奏という言葉を聞いたとき、3人の歌手プラス3人のギター奏者、合計6人による演奏と解釈しても不思議ではありません。普段私たちがあたりまえに思っている、3人がそれぞれギターを弾きながらのコーラス、つまり ‘3人が弾き語りする’ というラテントリオの演奏形式は、必ずしも普遍的なものではないのです。クラシック音楽の世界では、同じ少人数によるアンサンブルの演奏といえば、「弦楽四重奏」などが代表格ですが、器楽演奏であり歌は入りません。数人が歌いながら楽器を弾いたり鳴らしたりする演奏形式は、クラシック音楽では見られず、大衆音楽の中で育ってきました。今日このスタイルは、世界中どこにでもお目にかかれます。その中の一つにラテントリオがいるわけです。ただし、ラテントリオに関しては、いまや ‘世界中どこにでも’ というわけにはいかなくなりました。寂しいかぎりです。

さて、レキントにリードされながら3人でギターの合奏をし、同時にその3人が合唱するラテントリオの話です。この編成スタイルは、3人の一糸乱れぬギター演奏とコーラス、個々の技量レベルの同等性が絶対条件で、かなりの練習量も要求されます。先ほどの弦楽四重奏は、18世紀〜19世紀のクラシック音楽の世界では、曲想を表現するための究極の編成形式といわれています。私見で恐縮ですが、ラテントリオこそは、歌が不可欠な大衆音楽というジャンルの中で、20世紀が生んだ「完成度の高い、究極の演奏スタイル」だと思っています。

本題に戻しましょう。ラファエール・ぺレス氏のトリオに対する信念が、アルバム製作にどう反映したか、です。私がこのアルバム・シリーズの第1集第3章の(Ⅰ)を初めて聴いたときの衝撃の瞬間は、前にも述べました。その衝撃の要因は何であったのかと考えるとき、一言でいえば、このときの《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の、それまでに聴いたことのない素晴らしいコーラスとハーモニー、につきます。それは、《ロス・パンチョス》を筆頭に慣れ親しんできた、メキシコやパラグワイのトリオのコーラスとハーモニーから受ける感覚とは、全く違ったものでした。勿論、その感覚の違いは、《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》そのものの魅力によるものですが、最近になって、それ以外にもラファエール・ぺレス氏のミキシングにもあることが分かりました。

さきほど、ラテントリオの魅力は ‘3人の声と三つのギター’ にある、と述べました。ここで問題なのは、‘3人の声と三つのギター’ のバランスです。言い換えれば、コーラスとギター演奏のバランス、ということになります。ほとんどのトリオは、とかくコーラスよりもギター、特にレキントの、ともすれば技をひけらかすような演奏に力を入れています。特にライブ演奏では、そのほうが観客に対するアピール度が高いからでしょう。そのスタイルを、レコーディングにも持ち込み、演奏するのが普通です。ですから、どのトリオのアルバムを聴いても、とかくギター演奏はコーラスと対等、あるいはそれ以上に聴こえます。ぺレス氏は、ここを変えたかったのではないでしょうか。次項Cの寄稿で、ラテンギター演奏家の後藤耀一郎氏がフリート・ロドリーゲスのギター演奏力について解説する中で、「2nd ギターがジャラジャラ “出しゃばる”のはコーラスの興を殺ぐもの」「ぺレス氏はコーラスの魅力にピントを合わせたミキシングを行っているようです」と、その核心をついています。この点、黄金時代の《ロス・パンチョス》はコーラスを大切にし、ギター演奏との均衡をほどよく保っています。レキントをトリオ用に改良して一世を風靡したギタリスト、アルフレード・ヒルがリーダーであったにもかかわらず、です。

その《ロス・パンチョス》の大成功により、 ‘パンチースタ’ という言葉が生れ、ラテントリオのスタンダードな形ができあがりました。その一方で、’脱《ロス・パンチョス》スタイル’ という命題が多くのトリオに課されたことになります。その結果、ダブル、トリプルレキントなど、コーラスよりも華やかなギター演奏を前面に押し出すようになトリオが多数出現し、ラテン音楽ファンの心をつかみました。残念なことですが、それにより、トリオの特色である ‘コーラスとギター演奏の絶妙なバランス’ が崩れたのです。

かねがね、この傾向に疑問をもっていたラファエール・ぺレス氏が、このタイミングで《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の新アルバムを手がけた、と考えるのはどうでしょうか。彼は得意のミキシング技術を使って、ギター演奏のボリュームと効果を適度に抑え、コーラスの素晴らしさを強調したかったのではないでしょうか。

ラファエール・シャローンと筆者

ラファエール・シャローンと筆者

先年、マエストロ・ラファエール・シャローンにサン・ホワーンでお会いしたとき、私が、 ❝5枚の《フリート・ロドリーゲス・トリオ》アルバムの成功の要因は? ❞ と質問すると、❝「アンソーニア」の“ラルフ” (ラファエール・ぺレス氏)のミキシングテクニックだよ❞ と即座に答えてくれました。これは、さきほどの後藤氏の、「ぺレス氏の、コーラスの魅力にピントを合わせたミキシング」の言葉と重なるような気がします。

ところで、フリート・ロドリーゲスは何処でどのようにしてぺレス氏と遭遇したのでしょうか? そしてそれはいつ頃だったのでしょうか? このあたりのことはフリートとぺレスの両氏が亡くなった今、詳細は分かりません。それでも、ぺレス氏の娘さん(といってもかなりのご高齢ですが)で、「アンソー二ア社」の現社長メルセーデス “タティ” ぺレス・グラースさんの記憶では、フリートが初めてぺレス氏と会ったのは「サン・ホワーンの、とあるレコーディングスタジオだった」そうです。その時期は、フリートが《トリオ・ロス・プリーモス》としてメキシコ『ビクター』でデビューした後、プエルト・リコ各地で演奏活動をしながらレコーディングを続けていた頃(『カリブのラテントリオ』229頁*33)、つまり1958年ではないかと推測されます。二人は世間話をしながら意気投合し、食事の約束をしました。そのときの話の具体的な内容は定かではありませんが、プエルト・リコ音楽に対する思いなど、熱く語り合ったことは想像に難くありません。その後すぐにフリートは、二ューヨークにある「アンソー二ア社」を訪れ、契約を結んだそうです。その契約内容は興味あるところで、いずれ詳細を手に入れたいと思っています。

その頃のぺレス氏は、フリートにとって業界の大先輩でもあり、同じプエルト・リコ出身の著名な音楽プロデューサーでした。二ューヨークの「アンソー二ア社」の事務所を初めて訪れたフリート・ロドリーゲスの様子を、“タティ” グラース社長は今でも良く覚えていて、フリートはぺレス氏の意見に「真剣に耳を傾け、素直に頷いていた」そうです。トリオ名を《トリオ・ロス・プリーモス》から《フリート・ロドリーゲスと彼のトリオ》に改めたのも、このときのぺレス氏の助言の一つだったようです。

二ューヨークで長年腕を磨き、名レコーディングディレクター兼プロデューサーとして1940年、50年代、ラテン音楽業界で名を馳せたぺレス氏のバックグラウンドと業績、「アンソーニア・レコーズ社」の簡単な歴史は『カリブのラテントリオ』(114頁〜116頁)に写真付きで紹介されています。当時二ューヨークを中心に、プエルト・リコの音楽をラテンアメリカ諸国に紹介したレーべルは幾つかありましたが、なんといっても我々日本人にとって一番馴染みがあるのは『アンソー二ア』ではないでしょうか。

私事で恐縮です。1960年代の学生時代に親しんだラテン音楽のレーべルといえば、『ビクター』『コロンビ』」『ピアレス(PEERLESS)』『シーコ(SEECO)』『オルフェオーン(Orfeón)』などが思いだされます。それらの中には確かに『アンソー二ア』もありました。しかし浅学にして、それがプエルト・リコのレーべルであることは知りませんでした。なにせ当時は、ラテン音楽の宝庫といえば、メキシコ、キューバ、ブラジル、パラグワイ、ぺルー、ボリービア、アルゼンチンとばかり思い込んでいたからです。その後プエルト・リコ音楽にハマり、後に二ュージャージーに移転した「アンソー二ア・レコーズ社」を度々訪れるようになったことは、既に記しました。ラファエール・ぺレス氏のプロデューサーとしての力量は、彼が発掘し育てたプエルト・リコやドミ二カのミュージシャンの質と量を見ればわかります。その点、《ロス・パンチョス》と同年代にメキシコで活躍した《ロス・トレス・ディアマンテス》や、ビルヒー二ア・ローぺス(Virginia López)らの生みの親、メキシコ「ビクター社」の名音楽ディレクタ、マリアーノ・リべーラ・コンデ(Mariano Rivera Conde)氏を思い起こさせます。

B 独創性(El Trío con las características especiales)

こうして誕生した《フリート・ロドリーゲス・トリオ (A)》の初めての本格的アルバムは大反響を呼びました。このアルバムの誕生した経緯と成功の要因については、前項A二つのミラクルで詳しく述べたので、ここではトリオの独創性に富んだ魅力と素晴らしさを紹介します。まず初めに、トリオのリーダーでファーストボイス=フリート・ロドリーゲスの存在です。一般に、トリオのファーストボイスはそれぞれ、それなりの個性を持っていて、それがまたそのトリオの ‘売り’ でもあるのです。彼らがソロのパートを歌うとき、個性が遺憾なく発揮されます。言い換えれば、それがトリオのファーストの聴かせ所というわけです。そのテク二ックの中で最も華やかな効果が得られるのが、 ‘フレーズのつけ方’ でしょう。フレーズのつけ方といえば、すぐに思い浮かべるのが ‘フレーズの王様’ と呼ばれたエルナーンド・アビレースです。

彼はこのテク二ックで《ロス・パンチョス》の第1期黄金時代を築いたといっても過言ではありません。そのアビレースのフレーズのつけ方とは全く違いますが、フリートのそれも独特です。その独特なフレーズのつけ方は《ロス・パンチョス》時代から片鱗はありました。しかし《ロス・パンチョス》から独立し、《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》を結成して以来、それはまさに彼のトレードマークになったのです。ただ私には、それを言葉で説明できませんので、これからご紹介する5枚のアルバムをじっくりお聴きいただくしかありません。それを聴けば、彼の歌い方がプエルト・リコやメキシコなどのトリオのファーストボイスとは一味違うことがお分かりになる思います。彼がソロをとったとき、しばしば意図的にフレーズを崩します。しかも、それを平然とリズムに乗せて、ボレーロではしっとりと歌い上げ、ヒーバロ歌謡のような早いテンポの曲でもリズムを保ちながら、軽快に、持ち前の鋭く透明感のある格調高い歌声を駆使して熱唱します。まさに驚異的歌唱テクニックです。さらに、フレーズを崩したときのフリートとアビレースには、歌唱スタイルに決定的な違いがあります。音程です。アビレースは、彼の魅力の一つでもあるのですが、意図的に心持ち ‘はずし’ 、ときには ‘ふらつかせ’ ます。しかしフリートは 絶対に ‘はずし’ ません、‘ふらつき’ もしません。ここにも、演歌歌手エルナーンド・アビレースと、正統派「テノリーノ(Tenorino)」フリート・ロドリーゲスの違いがみられるのです。

さらに《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の独創性として、フリート/タティーン/ラファエール3人によるコーラスがあります。このトリオのバランスのとれたハーモニーの素晴らしさについては既に述べたとおりですが、セカンドボイスのタティーン・バレの声質をブレンドしたハーモ二ーのバランスは絶妙で、プエルト・リコのトリオの中では異色にして出色なのです。

次に彼らのボレーロの ’テンポ’ が挙げられます。それは《ロス・パンチョス》が完成させたボレーロとは一味違います。フリートが《ロス・パンチョス》を退団した理由として、アルフレード・ヒルの音楽からの離別をしたい、という気持が少なからずあったであろうことは前述しました。その根拠がここにもあったと推察します。一般にプエルト・リコの ボレーロの雰囲気にはメキシコのそれとは微妙に違うところがあるのですが、テンポの違いもその一つです。一般にプエルト・リコの ‘ボレーロ’ は、’刻み’ に間があり、スタッカートが効いていて、ややテンポが速くリズミカルに聴こえます。《ロス・パンチョス》の【海と空】を思い出してみてください。アルフレード・ヒルは明らかにプエルト・リコのボレーロを意識して、あの有名なイントロを作曲したのではないでしょうか。ところが、フリートが目指したボレーロは、この《ロス・パンチョス》の【海と空】ではなかったのです。これについては、第3章べストアルバム・シリーズ(Ⅲ)第3集7.の【海と空】で触れます。

さきほど、一般的なプエルト・リコの ボレーロの特徴を述べました。ところが《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》はこれとは少し異なり、テンポがやや ‘ゆっくり’ 気味なのです。つまり、プエルト・リコのボレーロの特色である ’刻み’ の間を残しつつ、独自のテンポを作り上げました。この場合、‘ゆっくり’ というよりは ‘ゆったり’ と表現したほうが適切かも知れません。特に、べストアルバム・シリーズに収められたフリート作のボレーロでは顕著です。これは、フリート・ロドリーゲスという稀有なファーストボイスの存在があってこそ生まれたものといえます。この独特のテンポに乗ってフリートは、さきほど述べた驚異的歌唱テクニックを駆使しながら、朗々と破綻を見せず歌い上げるのです。この「フリート・ボレーロ」とも呼ぶべき演奏スタイルは《フリート・ロドリーゲス・トリオ(A)》の独創性の一つで、トリオの大いなる魅力になっています。それを支えるフリートの持つ独特のリズム感と音感は、天性と経験に加えて、若いときに受けた正規の音楽教育がべースにあるからだと思います。

次にラファエール・シャローンのレキントです。1950年から70年にかけてプエルト・リコはレキント奏者の宝庫でした。その中で、彼以外にもメキシコを含めたカリブの世界で特に有名だったのが、ミゲール・アルカイデ、フ二オール・ゴンサーレス(Junior González)、エクトル・エンリーケ “へンリー” バスケス(Héctor Enrique “Henry” Vazquez)、マキシモ・トーレス(Máximo Torres)、ホルへ・エルナーンデス(Jorge Hernández)らです。彼らの演奏テク二ックは、メキシコの代表的レキント奏者ヒルベールト・プエンテ(Gilberto Puente)やチャミーン・コレーア(Chamín Correa)に比べても、勝るとも劣りませんでした。それら多くのプエルト・リコのレキント奏者の中で、ラファエール・シャローンは異彩を放っていました。前項(Ⅴ)の(A)二つのミラクルでも簡単にご紹介していますが、『カリブのラテントリオ』(188頁〜189頁)に詳述されているとおり、彼はクワトロ奏者の一家に生まれ、幼い頃からクワトロに親しみマスターをした後、レキントを持つようになったのです。彼はレキントの演奏にクワトロの奏法を取り入れ、縦横に駆使しています。彼の弾くレキントの独特なサウンドとフィーリングの効果が、このアルバムシリーズの素晴らしい出来上がりに大いに貢献しました。

最後に、このトリオの独創性として、フリートのマラーカス演奏を紹介します。あまり話題になることはありませんが、彼がドミニカで学んだと言われる卓越したマラーカスの演奏技術とその効果は、プエルト・リコでは知る人ぞ知る話です。彼は複雑なフレーズを歌いながら、さりげなくマラーカスを振り、決してリズムを崩しません。このアルバムシリーズでも、ボレーロ以外の数曲、ヒーバロ歌謡やキューバのアップテンポな曲で華麗なマラカス捌きが響きわたります。まさに快感です。ついでですが、このトリオのボレーロの伴奏に使われる打楽器の中に「ボンボ(bombo)」と呼ばれる大太鼓があります。これはフリートのお気に入りの楽器で、彼のライブステージには必ずと言っていいほど登場します。音色は普通の大太鼓よりも響きが良いのが特長です。この楽器の縁をスティックで叩けば、ラテン音楽には付き物の「ティンバーレス(Timbales)」のような効果音が出せます。しかしそれはティンバーレスのような金属的な音色と違って、ファジーで柔らかい響きを持っています。

ところで、この5枚のアルバムシリーズのなかで、オリジナルLPには表記されていませんが、第1,2,4集の3枚のCDにはバックで伴奏するスタッフの名前が次のように明記されています。

スタッフ表記

コントラバス:アレハーンドロ “グイト”ゴンサーレス(Alejandro “Guito” Gonzales)

パーカッション:ラモーン “チョルロ” ゴンサーレス(Ramón “Chorlo“ Gonzales)

マラーカス:トニート・フェレール(Tonito Ferrer)

どういうわけか、第3集と第5集にはこの表記がありません。しかし多少メンバーは違っても編成は同じでしょう。パーカッション/マラーカスの二人は「ボレーロ」系の曲ではほとんど伴奏しますが、「バルス」など、それ以外のジャンルの曲には参加しません。全60曲で伴奏をしているコントラバスには、二つの注目すべきポイントがあります。音量と奏法です。前者はペレスプロデューサーが意図的にコントロールしているのが明白で、 “出しゃばらず”、それでいて効果的に低音を響かせ、伴奏に深みをもたらしています。もう一つの奏法は、このベストアルバム・シリーズの隠し味です。全体的にはポピュラー音楽のベース演奏のように、弦を指ではじく 「ピチカート奏法」ですが、各アルバムの数曲、フリートの作品を中心にエンディングや ‘サビ’ などでクラシック音楽に用いられる弓を使う 「アルコ奏法」または「ボウイング(Bowing)」という奏法を行います。どの曲のどのパートを弓で弾くかは、間違いなくマエストロ・ロドリーゲスが指示しているのでしょうが、耳触りの良い絶妙な哀愁表現になっていて、このアルバムの「独創性」の一つになっています。

そして彼のギターです。ここは専門家のご意見をお聴きしました。寄稿していただいたのはラテン歌謡ギター研究家の後藤耀一郎氏です。氏は、学生時代に結成されたアマチュアグループ《トリオ・ロス・ソルテーロス(Trío Los Solteros)》のセカンドボイス兼ギター奏者として50年近く活動を続け、その間かの《ロス・トレス・ディアマンテス》のレキント奏者サウロ・セダーノ(Saulo Sedano)氏とも私的な場ながら共演しています。

C 寄稿(La colaboración)

《トリオ・ロス・パンチョス》及び《フリート・ロドリーゲス・トリオ》でのフリート・ロドリーゲスのギター演奏(Interpretación de la guitarra de J.R.R. con los tríos)
後藤 耀一郎(Yoichiro Goto)

トリオのファースト・ボイスはいわばそのトリオの “顔” であり、ソロをとるときの個性の発揮が腕の見せ所ですから、多くのトリオではファースト・ボイスは「歌に専念」するのが通例で、従って彼の受け持つ楽器といえば、マラーカスなどのパーカッションか、ギターならば3rd.ということになります。レコードやCDのジャケット解説に、ファーストボイスは1st. voice:3rd. guitar などと紹介されており、たしかにトリオメンバー3名がそれぞれギターをもっている写真があります。しかし、演奏においては、すくなくともメロディーラインを奏でる場面で、3rd. guitar が大活躍という例はあまり多くなく、極論すればギター演奏の腕前も含め “お添えもの” 程度、というのが相場のようです。

ではフリートはどうだったのでしょうか。パンチョス時代も彼のトリオ時代も、フリートがギターを構えている写真は多く残っています。それで、彼のギターは “お添えもの” なのでしょうか。いや、彼のギターは上手どころか、ソロ演奏家としても十分に通用する腕前であったと考えるのが当を得ていると思われます。

その根拠をいくつか考えてみましょう。まず、彼は小学生のころ父親にバイオリンを習うことを薦められ、4年間も教師について習練、後にオーケストラのメンバーを立派に務めています。つまり、バイオリンという、主旋律を奏でる楽器に堪能であったということです。トリオで主旋律を奏でるのは、いうまでもなくリードギターたるレキントですが、メンバーのなかで、彼は単にコードでリズムをとったり、べースをいれたりだけで “済んでいる” はずはなく、3rd. guitar として何らかの “存在” を十分に果たしていると思われるのです。

フリート愛用6台のギター

フリート愛用6台のギター

また彼は、6台ものギターを所有していました。これは筆者が実際にマエストロの家で遺愛のものを見せてもらいましたが、いずれも相当な銘器ばかりでした。1, 2 台ならともかく6台もの銘器をもつということは、彼がギターという楽器に並々ならぬ “思い入れ“ をもち、かつ、それにふさわしい腕前の持ち主であったことを物語るものと考えて差し支えないでしょう。因みに、彼が初めてギターを手にしたのは、高校生時代、母親からプレゼントされた1ドルの “粗末な” ものであったといいます(『カリブのラテントリオ』による)。しかし彼はそれ以来ギターにのめりこみ、多くの作曲もギターを “お伴に” なされたようです。ちょうどクラシックの作曲家の多くがピアノを “お伴に” しているように。

さて、以上についての証拠は? と問われますと、これがなかなかです。つまり、彼の残したトリオ演奏の音源から、「フリートのギター演奏」を聞き分けるという作業はかなり至難のわざなのです。彼はかなりの曲でマラーカスを振っています。その腕前は名人級ですが、聞くかぎり決してガシャガシャと目立つふりかたではありません(でも Así Es Amor, Tigre Rasurado では、その達者な演奏が聞こえます)。それらの曲では、当然ながらフリートはギターをひいていないことになるので、それを除外して、3丁のギターでの演奏を探すわけです。それが当方の耳と再生装置では、残念ながらなかなか「これ」と特定できないのです。はっきり断定できるのは、イントロの部分で、ヒルのレキントのメロディーにギターで「下をつけている」曲です。Ojos Negros や Sombras、Espinita(いずれもボレーロではありません)がそれで、レキントとその「下」のほかにリズムをとっているギターの3丁が聞き取れます。また、あの有名な Mar Y Cielo のイントロでは、最後の数小節は、ギターはボレーロのリズムの手を止め、レキントの「下をつけて」いますが、マラーカスも聞こえるので、ギターは2丁なのでしょう。しかし1953年製作の映画「Cantando Nace El amor」に出演したパンチョスですが、その中で演ずる Mar Y Cielo ではフリートはギターをもっています。さらに、Cien Mujeres では、中奏で、レキントでないギターのメロディーが聞こえます(この曲では珍しくナバーロとヒルのドゥオが聞こえます)が、3丁であるとは確信できません。余談ながらナバーロの 2nd. はやはり “パンチョス音楽” の カラーを担うもののようで、右手親指(ピック?)で 5,6 弦を弾くべースの付け方が独特です。Olvida Lo Pasado のイントロ(特にラウール・ショウ・モレーノ時代の吹き込み)に顕著に聞き取れます。

では、「下をつけて」いるのは 2nd.のナバーロでしょうか、3rd.のフリートでしょうか。私は「ヒルの下をつける」のは、役目がら当然 2nd.たるナバーロだと思い込んでいましたが、前述のようなフリートのギターの手腕を勘案してみるならば、これはフリートが弾いている可能性は否定できないどころか、かなり高いのではないかという気がします。

以上は、フリートの主にパンチョス時代の音源についてでしたが、遡って彼のそれ以前の《ロス・ロマンセーロス》では、彼は 2nd. ギター担当ということになっています。これは彼のギターの技量の確証と言えるでしょう。ただし、当時の音源は少ないうえに質が悪く、これがフリートのギターだとはっきり聞き分けるには至りません。しかし、聞き取れる限り、例えば Aires De Navidad の、後半やや走り気味になる速いパッセージでも、ソテーロの1st.に対し2nd.はまったく破綻なく、単にコードを奏でるだけでない多彩な演奏を繰り広げています。

パンチョス退団後に編成した彼のトリオですが、例の『アンソー二ア』吹き込みの5枚LP は、まさにフリート芸術の集大成、あるいは金字塔といわれていますが、名レキントのラファエール・シャローン、名セカンドのタティーン・バレを擁し、彼は渾身の歌唱を披露しています。ほかの盤に比べて “力の入れよう” が違うようです(吹き込みの際のアンソー二アのすぐれたミキシングも相俟って)。この3人が、お互いのパートを十二分に尊重しあって最高のハーモ二ーを醸しています。それに、優れた録音技師であったというアンソー二アのぺレス氏は、ここで彼らの「声」つまりコーラスの魅力にピントを合わせたミキシングを行っているようです。フリートはじめメンバーがこのように “歌に専念している” この5枚では、ギターは、イントロでレキントのシャローンにタティーン(でしょう)が「下を付けている」場面が多々あるほかは、2nd.すらもほとんど表立って聞こえません。結果「ギター3丁」は、Mensaje, Tu Primero Beso で、かすかにそれか?と聞こえるほかは、明確に聞き分けることはできませんでした。蛇足ですが、だいたい2nd. ギターがジャラジャラ “出しゃばる” のはコーラスの興を殺ぐもので、演奏(レコーディング)でもむしろ、声とは音程が重ならないべース(コントラバス)が “効いて” いることの方が多いです。因みに2nd.ギターといえば、チェイート・ゴンサーレスと彼の《トリオ・カシーノ・デ・サントゥールセ》のCiegamenteでは、チェイートはソロであり、またべースも加わっていないので、メキシコとは一味ちがったプエルト・リコ調ボレーロを奏でる2nd.ギター(パブロ・デルガード)の快演が聞こえます。

マラカスの名人

「マラーカスの名人(también es
un experto con las marácas)」

ところが困ったことに、これらのLP盤のジャケットには、フリート:1ra.Voz, 3ra. Guitarra、そして「マラーカスの名人(también es un experto con las maracas)」とも記されています。しかしCDにはマラーカス担当:ト二ート・フェレールと明記されており、一方LP5枚全部のジャケットでフリートはギターをもって写っているのです。こうなると、マラーカス担当はフリートだと決めこんでいたことが少々 “あやしく” なってきます。

さらにこのトリオも、タティーンが抜け、代わりにフ二オール・ナサーリオが加わると、事情がちがってきます。ご存じのようにナサーリオは《トリオ・ロス・アンターレス》でセカンドレキントを担当していました。したがってフリートのトリオ編成は、ラファエール・シャローンのレキントにナサーリオの2nd.レキントの「2丁レキント」という異なった性格を帯びてくるわけです。そうなると、3rd.ギターの存在は重大に、つまり必然的に2nd.ギターの役も担わねばならないことになります。音源では、『オルフェオーン』盤の Los Ejes De Mi Carreta や、Tres Estrellas, Lamento Campesino などのイントロで、ラファエール・シャローンとその「下をつけている」2nd.レキント、およびリズムとコードを奏でるギターの3丁が聞き取れます。またパンチョス・ナンバーを吹き込んだ盤『Así Canté Con Los Panchos』の Caminemos のイントロでは、メロディーは同じながらヒルとちがってレキント2重奏が聞き取れます。これらの場合は、シャローンの「下をつけている」のはナサーリオであり、3rd.ギターを見事にこなしているのはフリートであると考えるのが妥当と思われます。

そうなると問題は最初に戻ります。ヒルの「下をつけていた」のはやはりナバーロで、フリートはそれをしっかりと3rd.ギターで支えていたのかも知れません。ご本人にたしかめるチャンスを失った今は悔やまれるばかりです。

最後になりましたが、フリートの代表作 Mar y Cielo のギターについて触れておきます。まず曲の一部として不可分なアルフレード・ヒル作の有名なイントロです。素晴らしいメロディーラインもさることながら、導入部でヒルがレキントの低音弦をピックではなく指で弾くあのイントロです。《フリート・ロドリーゲス・トリオ》でもそれを忠実に踏まえているようです。フリートは、メンバーはちがいますが2回レコーディングしています。最初は彼らが “力を入れた” 5枚組シリーズの3枚目(Vol.3)に入っていますが、ここではさすがのシャローンもヒルのイントロを崩さず、「イントロのイントロ」を付けています。そしてタティーンもナバーロのフレーズをきちんと踏襲していて、この演奏はパンチョスのそれとはテンポが違いますが、残念ながらギターに関しては顕著な差異を見つけられませんでした。タティーン・バレがフ二オール・ナサーリオに代わった2度目のレコーディング(上述)ではこの中間の “味付け” になっています。ここではたしかにイントロでシャローンの「上をつけている」(ナサーリオ?)のほかにギター、つまり3丁が聞こえます。